第九話 HowとWhyの対決 3
雪衣を連れてメゾン・ド・キキへ急ぐと、門前で麗明が待ち受けていた。
「判官様?」
雪衣を目にするなりとび色の目を見開く。
「いかがなさいました?」
「すまない麗明どの、捜査の邪魔をして」と、雪衣が極まり悪そうに応じる。
月牙は胸をなでおろした。
もうすっかりいつもの落ち着きを取り戻しているようだ。
麗明が丁重に木戸を開け、雪衣を前庭へと導き入れながら訊ねる。
「お衣装のご見分ですか?」
「うん。秋には必ず必要なものだから、どの程度の裂かれかたなのか一目見ておきたいと思ってね」
「大丈夫ですよ。裂かれたのは前身頃でしたから、手直しするのはさほど難しくないとマドモアゼルが仰せでした」
麗明が労りに満ちた声音で告げる。
「それはよかった」と、雪衣が本当にほっとしたように応じる。もしかしたら本心から衣装のことも案じていたのかもしれない。
「頭領、師姉は居間においでだ。杏樹庭どのと左京兆府の方々、マドモアゼルもご一緒にいらっしゃる」
庭を抜け、マスケットを担った二人の隊士の護る玄関を入ると、居間へと続く左手の扉は開いたままになっていた。
中から話し声が聞こえる。
「……――だからさぁ瑞宝どのぉ、毒物が鳥兜だって分かった時点で、やるべきことはそっちの出所の探索なんじゃない? 洛東じゅうの鶉の煮卵売りをさっさと押さえちゃいなよ? あの厚化粧の紅梅殿の判官様、意地悪で偉そうで男好きで、若い娘と見れば嫉んで虐めるからさ、後宮の中じゃ蛇蝎のごとく嫌われているけど、毒が鳥兜である以上、今回の事件に後宮は関係ないんだからさぁ――」
なんとなくかったるそうなくせに、ときおり妙に舌足らずな若い女の声だ。
迦葉である。
雪衣がぴくりと眉をあげる。
後ろで茜雪が拳を握り、「おのれあの薬師……」と歯ぎしりしている。
頼みの綱の小蓮はと見れば、こちらは早くも刀の柄に手をかけ、頭領、ご指示を、と言わんばかりにじっと月牙を見ていた。
「さ、三人とも、ここは押さえて。お願いだから」
月牙は小声で懇願すると、敷居の外から室内へと声をかけた。
「師姉、柘榴庭、ただいま戻りました。紅梅殿の判官さまがお衣装の見分においでです」
「おお、なんとご本人が?」
秀凰が慌てた声を出す。
「わ、わたくしは外したほうが?」と、牢医師が狼狽える。
月牙は念のため訊ねた。
「判官様、左京兆府の火長と牢医師が同室しても?」
「もちろん構わない。急に来たのはこちらだ」
雪衣がいつもの雪衣らしい落ち着いた声で言いながら室内へ入ると、瑞宝がぎょっとしたように目を瞠った。
「――紅梅殿の判官さま、か?」
「ああ。すまんな火長。騒がせて。秀凰どもの、申し訳ない。気になってつい来てしまった」
雪衣はそれぞれに軽く頭を低めてから、円卓の傍に栗毛の御針子と並んで立っているマドモアゼルに目を向けて、ゆっくりとして歯切れのよいリュザンベール語で告げた。
〈マドモアゼル、災難を御気の毒に思います〉
〈雪衣、あなたこそ〉
マドモアゼルが心底気の毒そうに言い、壁際に並んだ衣装を示した。〈けれど心配いりませんよ。メゾン・ド・キキの名誉にかけて、あなたの衣装は必ず直してみせますからね!〉
〈ありがとうキキ。お茶は要りませんよ?〉
雪衣が悪戯っぽく笑いながら言うと、マドモアゼルもくっくっと喉を鳴らして笑った。
〈あなたの皮肉は強烈です。毒殺事件が解決するまで、もちろんお茶なんか出しませんとも〉
「ルイーズも久しぶりだね」と、雪衣が御針子に微笑みかけてから、改めてマドモアゼルに向き直る。〈他の御針子たちはどこにいるのですか?〉
〈全員、二階の仕立て部屋で縫物を続けています。舞踏会は待ってはくれませんからね。ドアの外を守備兵が護っています〉
〈秋栄もそこにいますか?〉
〈あの娘はショックで具合を悪くして自室で休んでいます。麗明がときどき様子を見ています。心配ですか?〉
〈ええ。一人にするのは危険です。部屋の中に護衛をつけたほうがいいと思います〉
〈でもねえ、若い娘が一人で寝ている寝室に護衛の男を入れるわけにも――〉
懊悩しかけたマドモアゼルは、雪衣の後ろにちんまりと控える小蓮を認めるなり掌を打ち合わせた。
〈女隊長!〉
〈はいマドモアゼル!〉
〈女士官候補生に秋栄の護衛をさせなさい〉
「師姉、お受けしても?」と、小蓮が秀凰に訊ねる。
「ああ」と、秀凰は眦を細めて頷いた。「旧・芭蕉庭の針女の警護だろう? 行ってきなさい」
秀凰は通訳を介さずともリュザンベール語は聞き取れているようだった。殆ど腕にぶらさがるみたいにして張り付いている迦葉は無表情で無言のままだ。雪衣はそちらに一瞥さえくれようとしない。
このままずっと没交渉でいてくれよ――と、月牙は何かに祈った。
シャーっと毛を逆立てて激怒する判官様の姿なんか他人には見せたくない。
小蓮が一礼を残して部屋を出たあとで、秀凰が扉を閉め、改めて衣装の列へと向き直った。
七着の衣装は、月牙が最後に見たときと同じ状態で並んでいた。
真ん中の一着の前身頃が裂かれて、後ろの壁に「蛮夷必殺」の四字が書かれている。
「あの字は化粧用の紅だった」と、秀凰が呟く。「それから、この居間の鍵は、どうも夕べ最後に出たものがかけ忘れていたらしい」
「すると、部屋へ入ること自体は、誰にでも容易かったのですね?」
「そうなるな。―-このメゾンに入れさえすれば、だが」
妓官二人が小声で言葉を交わすあいだ、雪衣は顎に手を当ててじっと衣装を見つめていたが、じきに顔をあげると、ひとつ頷いてから言った。
「――ねえ月、やっぱりこれ後宮内の誰かの仕業だと思うよ?」