第八話 howとWhyの対決 2
雪衣は激怒していますが、一応理性的な根拠があって「鳥兜はない」と思っています
ただ、単に激怒しているだけに見えてしまうため、説得に苦労するはずです
牢屋敷の始末を桂花率いる第三小隊に任せて、月牙たちはひとまず司令部へ戻った。
「ねえねえ秀凰どの、メゾン・ド・キキの現場を見せてよ!」
迦葉が秀凰の腕をつかんで執拗にせがんでいる。
秀凰は困り顔だ。
「しかし、私は主典さまを北院までお送りしなければ」
「あ、師姉、よろしければわたくしが」
月牙が申し出ると、秀凰は目に見えて安堵したようだった。
「そうか。それなら頼む」
医官を伴って再び北院へ入った月牙は、芍薬殿を辞すとその足でまっすぐに紅梅殿へと向かった。
一目でいいから雪衣の無事を確かめたかったのだ。
紅梅殿の表門を護る内宮妓官に、判官様への御目通りをと頼むなり、相手はすべてを心得たような笑顔で頷いて通してくれた。
「判官様は今この時間ではまだ正殿であろう。もうじきに表の務めが退ける刻限だ。あの小さい勇敢な師妹がずっとお傍に着いているようだぞ?」
表門を抜け、さらに中門を抜ければ、目の前は白い砂を敷き詰めたさほど広くない前庭である。
正面に碧い瓦屋根を備えた黒木の殿が建って、廊から降りる三段の階の手前に、まるで建物を護るように、一対の梅の古木が枝を拡げている。
黒くごつごつとねじくれた幹は巌のようなのに、枝に茂る葉は青々と瑞々しい。右手の樹の手前に見慣れた小柄な姿があった。
浅葱色の袴と緋色の帯。
小蓮だ。
今や正式にはたった独りになってしまった「柘榴の妓官」だ。
何を見上げているのか、小蓮はわずかに顎を上向け、梅の梢のあたりに視線を向けているのだった。
月牙は一瞬その姿が遠い昔からずっとそこにあったような気がした。三〇〇年来一歩も動かずにその場所に立ち続けていたのではないか。
なぜかそんな気がした。
「――小蓮」
呼ばわるなり、旧い静かな画のようだった少女が生きた人間に戻った。
「あれ、頭領?」
吃驚顔で応じるなり、小走りに駆け寄ってくる。「どうしたんですか? 何かまた事件が?」
「いや、新しい事件はないよ。芍薬殿の主典さまを護衛してきたついでに、紅梅殿の判官さまにも進展を御知らせしておこうかと思ってね。今呼んでもらえるかな?」
ちょうどそのとき、同じ北院内にある天文所の鐘が張り始めた。
小蓮がにこっとする。
「あ、鐘だ。なら呼べます。―-ええと、すぐ奥に取り次ぎますゆえ、ここにてしばしお待ちを」
ぎこちないながらも古雅な口調で言い、沓を脱いで腰を低め、足音を立てないよう気を付けながら階を登ってゆく。月牙は母親みたいな感慨に浸った。あの小さい小蓮が、随分しっかりしてきたもんだ。
「――時が経つのは早いなあ……」
さっき小蓮がしていたように樹下に立って梢を仰ぎながら呟いたとき、
「同感だよ柘榴庭」
階の上から微笑いを含んだ声が応えた。
見ればその先に雪衣がいた。茜雪と小蓮が左右に付き添っている。
「何を見上げていたの?」
「いや、特に何も」
つい砕けた口調で応じてしまってからハッとする。ここは紅梅殿の表の場だった。
「判官様、ご無礼を」
「いいよ。月たちはもう後宮には属していないでしょう?」
雪衣が少しばかり寂しそうに笑い、慣れた足取りで階を降りてきた。碧光りのする沓脱ぎ石の上に、茜雪がさっと布製の赤い靴を置く。
「事件の進展、私にも教えてくれるの?」
「うん。――大した進展はないんだけどね。とりあえず、ひとつ安心できたから」
「例の毒殺のほう?」
「そう。あれ、毒物は鳥兜だってさ。だから――」
そっちの件は、後宮内は関係ない。
そう続けようとしたとき、雪衣が目を見開き、
「鳥兜?」
ものすごく意外そうに言った。
「本当に? それどこが検分したの?」
「どこっていうか、杏樹庭どのだけど?」
その瞬間、雪衣の華やかな美貌が般若のごとく歪んだ。
「………今の杏樹庭って、要するにあの袁迦葉?」
「う、うん? そうだけど?」
「他に誰か検分は?」
「え、ええと、芍薬殿の筆頭の主典さまと、左京兆府衛士庁付きの牢医師どのが立ち会ってくださった、よ?」
「で? その二人も鳥兜だと?」
「あ、いや、お二人には分からなくて、杏樹庭どのだけが、こうぱっと快刀乱麻と」
「へええ、快刀乱麻。先達二人が全く分からなかった毒を、何歳だか知らないけど小娘を自称している若手の下っ端が快刀乱麻? それはすごいな。凄すぎる。柘榴庭どのはそのたわごとをお信じになったので?」
ぎりぎりと柳眉を吊り上げて雪衣がしたから睨みつけてくる。
目が坐っている。
とても怖い。
月牙は思わず一歩引いた。
背中が梅の樹に当たってしまう。
「せ、雪、杏樹庭どのと知り合い、だった、の?」
びくびくしながら訊ねるなり、雪衣がクワッと吼えた。
「知り合い? ああ知り合いだよ! よーく知っている! あの自称小娘のやり口はいつも一緒なんだ! 他人の手柄を平然と盗んで、雑務は人に押し付けて、報告だけは自分でやって一部の上役の覚えをめでたくするんだ! あれが鳥兜と言ったなら、毒物は絶対鳥兜じゃないね!」
「雪、雪。落ち着いて。これ一応まだ捜査途中だからさ、あんまり大声では――」
月牙はアワアワしながら宥めた。
気が付けば、正殿の奥から人が出てきて、廊の向こうの柱の陰に群がって、なんとも興味深そうに前庭をうかがっているのだった。
「――柘榴庭!」
雪衣が怒れる判官様の口調で叫んだ。
月牙は脊髄反射で背筋を正した。
「は、は、はい!」
「いますぐ私をメゾン・ド・キキへ連れていけ! あの無礼千万な小娘もどきの化けの皮、この手ではがしてやる……!」
拳を握って虚空を睨む雪衣の表情は雄々しかった。
「判官様、お気張りなされ!」と、柱の向こうから主計官たちが声援を送ってきた。
「柘榴庭どの、お頼み申しますぞ!」
「いや、その、あのね……」
危ないから駄目です、とは到底口にできない雰囲気だった。
「大丈夫ですって柘榴庭さま」と、茜雪が肩を叩いてきた。「お連れになるのが正解ですよ。連れていかなかったら自分で勝手に行っちゃいます。そっちの方がよっぽど危なくないですか?」
「うん。そうだね。危ないね」
月牙は諦めた。
雪衣はまだ闘志に燃えた表情で、「鳥兜? ありえない!」と呟いている。冷静な判断は全く期待できなそうだ。
「――ねえ茜雪、ひとつ訊きたいんだけど」
北院を出て内大池のほとりの石段を登りがてら、すぐ前を行く女儒に小声で訊ねる。
「判官さまはどうしてあんなに杏樹庭どのを嫌っているんだ? 何かよほどの行き違いでもあったのか?」
訊ねるなり、女儒は露骨に嫌そうに顔をしかめた。
「行き違いなんてもんじゃありません。完全な嫌がらせですよ」
「え、雪が嫌がらせを?」
まさかそんなと蒼褪めると、茜雪が眉を吊り上げた。
「逆です逆、あの薬師、ことあるごとに判官さまを中傷しているんです。紅梅殿に行くといつも無視されるだの、書類を出しても受け取ってもらえなかっただのって」
「それ本当なの?」
「判官様がそんなことなさると思います?」と、茜雪が心底怒った声で応じる。「事実無根の嘘ですよ。嫌がらせっていうより、単に自分の怠惰の言い訳に、ちょうど使いやすい判官様を口実にしているだけかもしれませんけど」
「使いやすいってどういう意味?」
「そのまんまですよ。ほら判官様、見た目が意地悪そうでしょ?」
「え、ふわふわの白猫みたいに可愛いと思うけど?」
「わ、柘榴庭さま、本音垂れ流しですね。ふわふわの白猫みたいに可愛いところが、見る人によってはいかにも意地悪そうに映るんです」
月牙は理解の努力を放棄した。
「だから信憑性があるんですよ。それでなくても、左宰相公の踊りのお相手を務めるとなってから、あちこちからの地味な嫌がらせが続いているのに――」
「――茜雪!」前を行く雪衣が振り返らずに咎める。「余計なことは言うな。柘榴庭、忘れろ。大したことじゃないから」
「大したことじゃないって、どんなことされているのさ?」
月牙は怒りのままに訊ねた。
雪衣がフンと鼻を鳴らす。
「本当に大したことじゃないんだ」
「散歩をしていると水をひっかけられたり、お部屋の入り口に毎日猫の糞を置かれたり、朝餉のお粥のなかに茹りかけたアマガエルが入っていたり、ま、そんなとこですかね?」
「えええ、それ酷すぎる!」と、小蓮が憤る。「雪衣さま、橘庭に訴えないんですか?」
「その程度のこと、いちいち訴えていたら仕事にならないよ」と、雪衣が肩を竦める。「私だって、もしも他人の立場だったら私に腹が立つだろうしね。でも、あの袁迦葉は――あれのやり方は、私は嫌いなんだ。袁迦葉は私が嫌いだから私に嫌がらせをするんじゃない。単に、自分に都合がいいように物事を進めたいから平然と嘘をついて、その嘘が他人を苦しめたって気にも留めていないだけなんだ。だから許せないんだよ」
雪衣が拗ねた子供みたいな口調で言った。
月牙は傷ましさを感じた。
あの奇矯な薬師どのを嫌う気持ちが分かるが、だからと言ってその判断まで疑うのは間違っているはずだ。
どう考えても、今の雪衣に冷静な判断ができているとは思えない。
――仕方がない。ひとまず雪の気の済むようにさせよう。杏樹庭どのがお気を悪くしすぎないといいのだけど。
謎解きに関する月牙の信頼は今やすっかり迦葉に傾いている。
雪衣は――雪衣は掌の中で大事に守りたいものだ。
今も壊れずに在り続ける美しい過去を護るように、月牙は雪衣を護りたかった。