第八話 同時多発異変 7
迦葉は主人公ではありません
ハリーポッターにおけるマルフォイ的立ち位置です
「楊春は念のため小屋のひとつに籠めてある」
桂花が沈んだ声で言う。
「そうか。よくやった」
月牙は手短に労った。
五軒並んだ高床小屋の内、真ん中と左端の階の前に見張りが立っていた。
「そこの拗ねている子、まさか事件現場をいじっていないよね? そのまま保ってあるんだよね?」
「はい薬師どの」と、桂花が平坦な声で応える。迦葉が眉を吊り上げる。
「そこは杏樹庭さま、だろ? 無能なうえに礼儀知らず? どこまで使えないんだよ?」
「杏樹庭どの、まあそう言ってくれるな」と、秀凰が困り顔でとりなした。「しくじりは誰にでもある。この若い元・妓官にとって、独りで一隊の指揮を執るのは初めての経験だったのだ」
「秀凰姉さんはお優しいなあ。こういいことは厳しく言ってあげなきゃ駄目ですよ。あとで本人が苦労するんですからね? さ、中に入れてよ。毒殺、毒殺、楽しみだなあ!」
高床小屋の閂には南京錠がかけられ、外からでも自由には開かないようになっていた。
桂花が腰帯に吊るした鍵束から鍵をつまみ上げて開ける。
途端にツンと鼻を突く悪臭が漂ってきた。
汗と汚物と吐瀉物の臭いだ。
その中に死臭が混じる。
月牙は思わず口元を押さえた。
同じ死の臭いとはいえ、新鮮な血の匂いとは全く違う――どろりと淀んで饐えた臭いだ。踏み込もうとした足が一瞬竦んでしまう。
と、
「ふぅん。だいぶ吐いているみたいだねぇ――」
背後の迦葉が平素通りの面白そうな口調で呟き、
「柘榴庭どの邪魔。入り口塞がないでよ?」
くすくすと笑いながら、全く躊躇のかけらも見せずに、死臭に満ちた牢内へと軽やかに踏み込んでいった。
「――大した度胸ですなあ」
牢医師が感嘆する。
「あれは風変わりだが有能らしい」と、医官が微苦笑ぎみに請け合う。こちらも死臭には全くたじろいでいないようだ。
躯は柵の内でうつぶせになっていた。床に吐瀉物が流れている。伸ばした右手の傍に小型の桶が転がって、その周りに少しばかりの水が零れている。
食物の残骸は柵の傍にあった。
上等の蓋つきの河東青磁の鉢の中に、果物の種と皮が収められている。
「――ふうん、囚人はまず鶉の卵から食べたみたいだね」
迦葉が独り言のように呟くと、思いがけず医官が相槌をうった。
「そのようだな。――何に毒が入っていたにせよ、即効性ではなかったと見える」
「へえ、なんでそう思うの?」
と、迦葉が例の小ばかにしたような口調で訊ねる。
医官は眉をひそめた。
「杏樹庭よ、私とてそれほど能無しではないぞ? 仮に鶉に毒が含まれていた場合、即効性ならば果物を食べている余裕などなかろう」
「ああ、それにもしも果物のほうであったら、落ち着いてすべての皮を剥いて鉢に収めている余裕もございませんな」と、牢医師が続ける。
「へえ、二人とも意外といい線ついているねぇ」と、迦葉がまるで上役みたいに褒める。「でも、その謎解き? みたいなの、ちょっと無理がない?」
「どのような?」
「毒が最後の一粒にだけ含まれていた場合は? その場合は即効性である可能性だってある」
「それは――確かにそうだが……」
医官が考え込んでしまう。
月牙は慌てて口を挟んだ。
「主典さま、杏樹庭どの、それに牢医師どのも、まずは躯の検分をお願いいたします」
「ああ、そうだった、すまんな柘榴庭」
柵の閂にも錠が架かっていた。桂花が開けるなり、迦葉がするっと入り込み、いの一番に鉢の傍にかがんで、果物の皮と種をヒョイヒョイつまみだしてしまった。
「杏樹庭!」と、医官が慌てて止める。「この場の責任者は柘榴庭であろう! むやみと触るでない!」
「落ち着いてよ医官どの、大年増の血の道? 決まり、決まりってぐずぐずしているから、解決するべき事件がいつまでも解決しないんだよ。要はこの毒が何だか確かめればいいんでしょ?」
迦葉は鉢から皮と種をすべて取り除くと、底に残ったわずかな煮汁――たっぷりと入った砂糖のためか、粘り気が強く光沢のあるねっとりとした黒い液体――を薬指の先に付着させるなり、ためらいなく口に含んだ。
「あ、あ、杏樹庭――!」
「迦葉どの、何をやっているのです!?」
医官と牢医師が同時に叫ぶ。
「ざ、ざ、柘榴庭、水だ!」と、医官が月牙の襟元をつかんでがくがくと揺さぶってくる。「今すぐ安全で新鮮な水をできるだけ大量に持ってこい!」
「はい主典様、桂花、すぐに司令部へ! 手すきの隊士を総動員して井戸水を持ってくるんだ!」
「はい頭領!」
桂花が応えて駆けだそうとしたとき、
「ああもう、うるっさいなあ三人とも! 味に集中できないでしょ?」と、妙に陶然とした顔で指をしゃぶり終えた迦葉が眉を吊り上げた。
「多少の毒なら私は大丈夫。日ごろから体を慣らしているからね。薬師の基本の基本だろ?」
「……そ、そうなのですか主典どの?」
月牙は小声で訊ねた。
医官はつくづくと首を横に振った。
「知らん。在りし日の外宮ではそうだった――のかもしれん」