第八話 同時多発異変 2
十日後の昼過ぎ――
牢屋敷へと続く桟橋を二人の隊士が歩いている。
松齢と楊春である。
楊春のほうが妙に上等の紫檀の盆を手にしている。
盆の上に乗っているのは、これもなかなか上等の蓋つきの河東青磁の鉢だ。青い葉のついたままの瑞々しい杏子が三つと、洗い立てで新鮮な水滴に濡れた竜眼が五つ添えられている。
「なあ楊春――」
前を行く松齢が気づかわしそうに呼ぶ。「そいつさ、本当に勝手に持って行っていいのか? やっぱ頭領に許可をとったほうが」
「そんなこと言ったって、頭領は今朝からずっと左京兆府だろ? 大丈夫だよ。月の中日は昔から差し入れの日なんだそうだ」
「だれに訊いたんだそれ?」
「頭領からさ」と、楊春は胸を張った。
「へえ」と、松齢が口惜しげに応じる。「俺はてっきりお前の可愛いお針女さまからかと思った! それ、あの方からお願いされたんだろ?」
「俺の、なんて言い方をしないでくれよ。こいつは秋栄さまからっていうより、あのお気の毒な蝶仙さまからだよ」
告げるなり松齢は蒼褪めた。
「蝶仙さまってあれか? あの井戸に身を投げられたお可愛いマダムか? ご自害なされたマダムに頼まれたって――十日前のあの幽霊って、やっぱり本当に蝶仙さまだったのか?」
――十日前の幽霊騒動のとき、松齢は扉の外で妓官さまの悲鳴を聞きつけ、「開けてください、開けてください!」と外から叫んでいたのだった。
そのうちに扉が開くと、強張った顔をした頭領が出てきて、「今夜のことは他言無用だ」と怖い声で言った。夜番の二人は二人してがくがく震えながら頷き、夜半の交代の時間がくるまで、蛙の跳ねる音にさえ怯えながら永い夜を過ごしたのだった。
「内宮妓官さまが水音に驚かれて錯乱なさっただけだって頭領は仰せだったけどさぁ――」と、松齢は恐怖と好奇心のないまぜになった声で続けた。「俺ぁちっと信じられねえんだよ。あの落ち着いた妓官さまが、何もないのにあんな風に御叫びになるなんてさ。楊春、お前あのとき厨にいたんだろ? 本当のところ、中では何が起こっていたんだよ?」
「それはね――」と、楊春はとくとくと真実を語ろうと思ったが、実際のところ、楊春自身も、あの夜何が起こっていたかは、正確には把握していないのだった。
分かるのは桂花小姐がとても綺麗だったことと、頭領たちが何らかの趣向を凝らして咎人の検分をしていたことだけだ。
「それは、何なんだよ?」と、松齢が意地悪く促す。
楊春は諦めて首を横に振った。
「俺もきちんとは知らないんだけどさ、蝶仙さまは生きていらっしゃるよ。あの咎人と縁続きだったみたいで、秋栄さまにお手紙で差し入れをして欲しいってお頼みなされたんだってさ」
「ああ、なんだ。それでお前が買い出しを頼まれたのか」
「うん。まあ、そういうわけなんだ」
楊春は誇らしげに応じた。
メゾン・ド・キキの見た目清楚だがちょっと恐いお針女さまが、うらやましくも勿体なくもこの赤い頬っぺの平隊士と名前で呼び合う仲なのは、若い平隊士のなかではつとに知られた事実である。秋栄さまについて楊春に訊ねれば一昼夜でも語りつくしてくれるだろう。松齢は――悔しいので――それ以上は何も聞かないことにした。
楊春にとっては幸いなことに、今日の門衛二人は、月の中日の差し入れについてすでに聞き及んでいた。
「なあ楊春、これお前が買ってきたんだよな?」
「ええまあ。お代をお預かりしまして」
「よしよし。そんならひとつ毒見といくか。――お、この鉢まだ温けえな?」
伍長がマスケットを門柱に寄り掛からせ、盆の上の鉢の蓋をとる。すると、魚醤と砂糖と生姜の混じった芳しく生ぬるい湯気がふわりと立ち上った。
洛東名物、鶉の卵の煮しめである。
「できたてか! 旨そうだなあ」
「秋栄さまが厨で温め直されたんですよ!」と、楊春が得々と教える。「お針女さまなのにお料理もお上手なんです。こないだは点心に胡麻団子を作ってくれたとお針子たちが話していました」
「おお、そりゃ大したもんだなぁ」と、伍長は慣れた様子で聞き流しつつ、よく煮しめられたゆで卵をひとつ摘んでひょいと口にいれた。
「うん。よし。大丈夫だろう」
「毒ってそんなにすぐに効きますかねえ」と、松齢は苦笑した。「果物のほうはいいんですか?」
「おう、じゃあお前ら一つずつ食え」
「俺はやめときますよ。数が減っちまう」と、楊春が辞退する。
結局、松齢が杏子を、もう一人の門衛が竜眼を食べることになった。
果物の味はちっとも怪しくなかった。
差し入れはことなく牢屋敷へと運び込まれた。
情を知る楊春は、見張りに盆を手渡しつつ、敢えて牢内に聞こえる声で差し入れの出所を説明してやった。
「これは塩政さまのお邸の蝶仙さまからだ。秋栄さまのお話では、あのマダムはここの咎人のことをとっても気にかけているらしいよ!」