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第七話 新租界幽霊騒動 11

「ところで楊春、その粥はもうできそうか?」

「あ、はい。もうすぐ。――頭領もお上がりに?」

「いや大丈夫。われわれは食事は済ませてきた。実は、今日は外に珍しいお客人が二人いるんだ」

「え、この牢屋敷にですか?」

「ああ。さっき話したちょっとした趣向の一環でね。何を見ても愕かないように――いや、ごく普通に驚いてくれていいかな? まあいいや。ついておいで」

「お、お客人がたにお食事は?」

「そっちも必要ないよ」



 提灯を手にして外へ出ると、外はもう薄暮に沈んでいた。

 沼地から立ち上る夕霧が逆茂木の隙間から零れて、高床小屋の脚元をうっすらと曇らせている。


 真ん中の小屋の前に篝火がひとつ見える。日の傍に四つの人影があった。

 階の左右を護っている見張りの隊士が二人と、瑞宝と秀凰である。

 秀凰は月牙たちを見るなり、朗らかすぎるほど朗らかな調子で笑いながら近づいてきた。

「おお師妹、見違えたぞ! 私のためのもてなしにわざわざ着替えてくれるとは、姉分としてありがたいかぎりだよ。ところでそこな炊ぎ手よ、今しがたそこの見張りたちから聞いたのだが、この牢屋敷にはしばしば幽霊が出るというのは本当か?」



 過剰に明るい声音で訊ねてくる秀凰の様子は、どこからどう見ても、不意の思い付きでいきなり現場にやってくるはた迷惑な上役そのものだった。

 楊春がうろたえながら応える。

「す、す、すみません妓官様、わたくし、なにぶん新参者でして、そのようなお話はあまりよく」

「知らんのか? ならいい、そっちで食事でもしていろ。見張り二人は食べたらもうさがれ。今夜の見張りは我々が引き受けるからね。で、柘榴庭、お前は何か知らないのか?」

「幽霊譚でございますか? いろいろございますが――」

 月牙は微苦笑する中間管理職の声色を装って考え込むふりをした。

「そんなにあるのか?」

「ええ。なにしろ、この牢屋敷は桃梨花宮三〇〇年の歴史を背負っておりますからね。ここでそれは多くの女官が死んでいるのです」

「――え、ここで、でございますか?」と、右隣の小屋の露台に腰掛けて食事を始めていた見張りが怖ろしげに訊ねてくる。「その、この屋敷はお裁きを待つ間籠めておくだけの場所だったのでは? ここで処刑もあったのですか?」

「もちろん公にはないがね――」と、月牙はわざと恐ろしげな声を拵えて応じた。「そこはそれ、後宮三百年の闇というやつさ。お前たち、恩賜の毒杯という言葉を知っているか?」

「恩賜の毒杯、でございますか?」

「ああ」と、今度は秀凰が大仰に潜めた声で応じる。「後宮典範の定めでは、この牢屋敷に籠められた女儒や婢には、月の中日にだけ、関わりのある御殿から飲食物や衣を差し入れていいことになっているのだが、古記録によると、差し入れがあった直後に捕囚が死ぬということがしばしば生じているのだ」

「え、それはまさか、差し入れの食物に毒が?」

「おそらくはな」と、秀凰が怖ろしげに応じる。

「差し入れをするのは咎人と縁のある御殿なのですよね? それなのになぜ縁者を殺すのですか?」

「口封じさ」と、秀鳳凰。「この牢屋敷に捕らわれるのはさしたる官位を持たないものばかりだ。それがたとえばさる貴妃さまに毒を盛ったとする。あるいは衣に毒針を仕込むとか、寝床に毒蛇を仕込むとかするとする」

「毒ばかりでございますね?」

「……え、いや、後宮といったらやっぱり毒だろ?」と、秀凰が微妙に素に戻った不安そうな声音で言い返す。

「ええもちろん、後宮といったら毒でございます」と、月牙は慌てて援護した。「つまり、そういう場合ね、実際に手を下したのが女儒や婢だったとしても、命じたのはもっと高位のどなたかだったんだよ」

「あ、ああ!」

 楊春が声をあげる。「それで身内が口封じを!?」

「そういうことだ」と、月牙は頷いた。「だから、この場所では、それは多くの女たちが怨みを抱えて死んでいるんだ。幽霊はよく出る。実際本当によく出るんだよ――」



 延々と――わざとやや声高に――幽霊話を続けるうちに、ゆっくりと霧が上ってきた。高床小屋の脚が乳のような霧に沈んで、まるで幻の湖の上に浮かんでいるようだ。桂花の衣装もちょうどよく湿ってきた。

「さて、ではお前たちはもう下がりなさい」

「師姉、本当に今晩の夜番をなさるので?」

「ああ。何だその目は、私じゃ不安か?」

「いえそんな、とんでもない」

 ぎこちないやり取りを交わしたあとで、桂花は右隣の高床小屋へ入った。楊春は鍋や皿を抱えて厨へと戻り、二人の見張りは逆茂木の門へと向かう。

 二人が外へ出るのを待って、月牙は内側の閂をかけると、桂花の入った高床小屋へ向かってそこで待つことにした。


 方丈の板の間の真ん中に木製の柵が嵌まった獄屋には、ごく小さな格子窓が一つだけ開いている。その窓から霧が忍び込んでくる。

 月牙と桂花は獄屋の柵に並んでもたれると、無言で息をひそめながら外からの合図を待った。沼地の蛙の鳴く声ばかりがむやみと耳に着いた。


 じきに格子窓から月光が射して、淡い乳色の霧を白銀に光らせるころ、外から女の悲鳴があがった。

 秀凰だ。

「な、何者! とまれ! 女、とまれ――!」

 今度は瑞宝が叫びながら剣を抜く音がした。

 合図だ。

 月牙と桂花は目を見合わせると、無言でうなずき合ってから獄屋の外へ出た。



「あ、あ、あ、うわぁああ――!」



 秀鳳凰がひときわ声高に叫ぶ。

 門の外から戸板を叩く音が聞こえた。

「妓官さま、妓官さま、どうなさいました!?」

 外から扉を開こうとしているが、当然開かない。秀凰が背に負った大弓を外して結弦を鳴らし始めた。

「消えろ、消えろ怨霊――……!」

 叫ぶなり地面にドサリと倒れる。

 瑞宝もそれに倣った。



 ――すごいな師姉。迫真の演技だ。



 二人が霧の底に倒れてしまうと、外から扉を叩く音だけが残った。

 今だ。

 月牙は桂花に視線を向け、行け、と目だけで命じた。

 桂花も無言で頷くと、霧を含んで重たげに濡れた被り布をしっかりとかけ直し、重たげな白い裳裾を引きずりながら七段の階を登っていった。


 桂花が牢の閂をあけて屋内へと入り込む。


 数秒の沈黙のあとで、


「……――蝶仙!?」


 牢の中から泣きむせぶような男の悲鳴が響いた。



「――当たったようだな」

 霧の底から立ち上がりながら、秀凰がやるせなそうに呟く。

 月牙も重苦しい気分で頷いた。

「ええ。身元が知れたようです」



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