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第七話 新租界幽霊騒動 10

「いや愕いた。百華咲き誇る桃梨花宮の壁の内に、よもやこのような場所があろうとはなぁ」

 牢屋敷の敷地内に入った瑞宝が呆れとも感嘆ともつかない声で呟く。

「お見それした。後宮で咎人を預かると仰せられたときには、どこぞの御殿の奥の間の座敷牢にでも籠めるおつもりかと、密かに案じていたのだが」

「あいにくながら、外宮に御殿はありませんよ」

「ま、確かに、ある程度の官位ある内宮女官が罪に問われた場合、他の御殿でおん預かりとする場合が多いがな」と、秀凰が言い添える。

「あの、ええと、師姉?」と、桂花が躊躇いがちに訊ねる。「内宮の官位あるお方が罪に問われるときというのは、どういった罪状だったのですか?」

「いろいろあるぞ」

「やはり貴妃さまがたの御寵愛争いの果ての毒殺沙汰か?」と、瑞宝が興味津々と訊ねる。秀凰が苦笑する。

「後宮内の諍いというと、みなまずそれを思い浮かべるようだが、古記録を読む限り、他にも色々起こっていたようだぞ? 外宮なんかは昔から刃傷沙汰も多かったようだ」

「ああ、実際多かったですよ」と、月牙は懐かしく思い出した。「妓官同士の私闘はご法度中の御法度でしたが、大膳所の厨女たちも刃物を持っていましたからね。祭りのあとなんか、若い者同士の大喧嘩は結構よくありました」

「宿下がりに乗じて備品を盗むコソ泥は内外宮のどちらにもよくいたしな。高位女官の捕縛となると、主計官が帳簿をごまかして租税を私していたり、公文官が公文書を改竄していたり、内膳所の仕入れ係が勝手に後宮の威を借って出入りの商人に無料で品を献上しろと脅していたり、なんていうのもあった」

「ほほう」と、瑞宝が目を瞠る。「そのようにお聞きすると、市井の捕り物と何ら変わりませんなあ」

「それはそうさ。盛りの頃には一〇〇〇人を超える人が暮らしていたのだ。すべてが女であったとはいえ、日々紅白粉で身を装って宴や歌舞音曲だけに耽っていたわけではないのだよ。ところで師妹たち、そろそろ身支度にかかったらどうだ?」

「あ、そうでした。瑞宝どの、梱をありがとうございます」

「いやなに、軽いものだ」



 瑞宝から受け取った梱を抱え、桂花だけを連れて厨の階を登る。

 厨の戸板に閂はない。入ると中に陽春がいた。

 牢屋敷の警護は基本的に第三小隊に任せてあるが、厨の仕事だけは、念のために、月牙直属の第一小隊から人を出しているのだ。


 楊春は煙出しの下に据えた焜炉の前に長々と腹ばいになって、竹の筒で熱心に息を吹きかけていた。どうやら熾火が消えてしまったらしい。


 戸が開いて風が入るなり、目はむけず、竹から口だけを放して尖った声を出す。

「おい、飯はまだだよ。早く戸を閉めてくれってば!」

「悪いね楊春、ちょっと厨を借りるよ」

 月牙が告げるなり、若い平隊士は尻尾を踏まれたぶち犬のようにビクリと跳ね上がった。

「え、あ、頭領? どうしました?」

「これから咎人の検分をするのさ。少しばかり趣向を凝らしてね。ああ、お前は炊事を続けなさい。咎人は食べているか?」

「あ、はい。初めは舌をかみ切らないか心配で、みなで押さえつけて薄い粥を流しこんでいたんですが、このところ普通に食べさせています。大人しい奴なんですよ。いつもじっと黙って壁を見ているんです。よく考えるとあいつ、誰も殺してはいないんですよねえ」

 楊春の口ぶりはどことなく気の毒そうだった。

「そうか」

 月牙は辛うじてそれだけ答えた。



 楊春は腹ばいには戻らず、焜炉の前にしゃがみこんで炭火を吹きにかかった。


 月牙は水がめの傍に梱を下ろすと、蓋をあげ、まずは円い鏡を取り出した。


 貝紅と白粉の紙包み、紅筆と柔らかな紙の束。


 取り出したものを梱の蓋の上に並べていると、

「なあ頭領―-」

 棚から素焼きの小皿を運びながら、桂花が不機嫌そうに言った。

「この役、本当に私で大丈夫なのか? あのマダムと一番背格好が似ていらっしゃるのはたぶん判官様だ」

「判官様を夜の牢屋敷になんか連れてこられないよ」

「頭領が傍にいればあの方はこの世で一番安全だと思うがな。私よりは小蓮のほうがましだったんじゃないか?」

「小蓮じゃ小柄すぎるよ。観念しろ桂花。これも務めだ。坐りなさい。さ、久々に私が化粧してやろう」

「化粧くらい自分でできるってのに」

「だめだ。お前の化粧は大雑把すぎるんだ。今日は特別に念入りにやるんだから」

 桂花は渋面を拵えたものの、諦めたようにため息をつくと、梱の前にドカリと胡坐をかいて坐った。

「瞼に色々塗らないでくれよ? あれ痒くて嫌いなんだ」

「我慢だ。我慢。ほんの小半時のことだ」

 桂花がよく揃った短めの睫を伏せ、くいと顎を上げて見あげてくる。こんな任せきった表情をすると、盛装のための化粧を教えてやった十四の頃と殆ど変わっていないように見える。



 ――蝶仙さまはこの子と同い年なんだよなあ。



 そう思うと、ツキリと胸が痛んだ。


 日ごろは不機嫌で不愛想な表情をしているものの、目を閉じて唇をうっすらと開けた桂花の顔は存外に幼い。その顔に厚く水白粉を塗り、眉を描き、唇と眦に紅を点じる。

「さて済んだ。次は着替えだ。楊春、悪いがちょっと焜炉だけ見ていてくれるか?」

「は、は、は、はい!」

 気の毒な平隊士が上ずり切った声を返す。

 炭火はもう熾っていた。上に掛かった素焼きの鍋の中で粥が煮えているようだ。芳ばしい家庭的な匂いを密かに楽しみながら、月牙は梱から袖の広い薄紫色の上衣を取り出して拡げた。途端、白檀と茉莉花の混じったような甘い薫が微かにくゆるのがわかった。

「いい匂いだな」

「水月楼の双蝶のお気に入りだったんだそうだ」

「この衣装は、みんな貸してくれたのか?」

「ああ。できるなら蝶羽どのご本人を連れ出したかったんだが、さすがに断られてしまった」


「あのう頭領―-」

 ひたすらに焜炉だけを見つめながら楊春が口を挟んでくる。

「わたくし、実はここにいるのですが、今のお話、本当に聞いてもよろしいので?」


「勿論かまわないさ」と、月牙は桂花の腰に張りのある白絹の裳裾を巻きつけながら笑った。「お前は私の直属の隊士だ。つまり、私の腕か足みたいなものだ。手足をいちいち疑っていたら歩くのも大変だ。――さあ桂花、これで大体仕上がった。髪はそのままでいいだろう。被布をかけるからね」

 月牙は梱の底から最後の一枚を取り出した。


 上衣よりもさらに淡い薄紫色の羅である。

 四隅に小粒の真珠が縫い留められ、全体に銀糸で蝶の刺繍が施されている。その布をふわりと着せかけると、桂花の姿は淡い薄紫の霧にぼかされているように見えた。


「楊春、もう見ていいぞ?」

 月牙が声をかけると若者が顔を向け――口をポカンと開けたまま硬直してしまった。


「……やっぱり変か?」

 桂花が珍しくも不安そうに訊ねる。

 楊春は顔を真っ赤にし、蚊柱を払う松齢みたいにぶんぶんと首を横に振った、

「い、い、いいえ、お綺麗です! 秋栄さまと同じくらいお綺麗です!」

「おい楊春」

 月牙は年長者として忠告した。「褒めるのに他の誰かと比べるのは好ましいやり方じゃないぞ?」

 すると桂花自身が声を立てて笑った。「いいんだよ頭領、こいつがそう言うなら、要するに地上で一番綺麗だって意味だ。秋栄さまは地に降りた織姫天女だと思っているんだからな!」

「--小姐! 揶揄わないでくださいよ!」

 楊春が意外なほど親しげな口調で言い返す。

 そういえば楊春も周姓だったな――と、月牙は思い出した。御菜所の衛士の家にはわりと周姓が多い。初めに覚えた限りでの系譜では桂花の家とじかの親戚関係にはなかったはずだが、同じ地方、同じ身分の同姓の家同士となると、姻戚関係は当然あるのかもしれない。


「そういえばお前たち――」

 月牙はふと気になって訊ねた。

「このごろ生家(さと)の暮らし向きはどうだ? (むら)で困っている者なんかはいそうか?」

「それは――」と、楊春が口ごもる。

 桂花がとりなすように応じた。

「頭領、今は大丈夫だ。去年は色々物入りだったみたいだが」

「そうか」

 月牙は務めて平静を装って頷いた。「縁者が困っているようだったらまずは私に報せなさい。少なくとも北院に直訴することはできるからね。他の隊士たちにもそう伝えておくように」

「は、はい頭領!」

「承った」

 若者二人が頭を低めた。月牙は自分の引き受けている地位の重みを改めて感じた。高い地位を得るということは、下の者たちの人生にある程度の責任を持つということだ。命じる立場に立ちたかったら、この重みは引き受けなければならない。


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