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第七話 新租界幽霊騒動 9

翌日の昼頃――


 司令部(カルチエ)の裏手のじめじめした沼地に伸びる桟橋みたいな細い竹製の歩道を、大きな水の桶を手にした平隊士が緊張の面持ちで歩いていた。

 今は雨期のさなかで、沼地の水位は高い。泥臭くむっとする暑気のなか、青い蒲の穂の上むやみやたらと蚊が飛び回っている。


 頭に群がってくる蚊柱を払おうとときおり濡れた犬みたいに首を振っている平隊士の名は張松齢(ちょうしょうれい)

洛東巡邏隊第三小隊に属する、京洛地方の御菜所出身の若者である。

恐れ多くも勿体なくもかつての後宮に月替わりで上がりはじめてはや八か月目――旧・外宮地区というのはそんなに雅な造りでもないと分かり始めてはいたが、まがりなりにも昔日の後宮の石壁の内に、まさかこんな野生的(ワイルド)な沼地が存在していようとは! 



 とはいえ、この場所が雅やかでないのは当然といえば当然だった。

 ここは柘榴庭付随の牢屋敷である。

竹藪に囲まれた小さな沼地の真ん中には子亀の甲みたいな微高地があって、縁を逆茂木で囲まれている。桟橋の先はその逆茂木に一か所だけ開いた門へと続いているのだった。


見るからに重たげな木製の両開きの扉を備えた門の左右には若者と同じ服装の隊士が二人。右手の一方がマスケットを担っている。第三小隊の三番手の伍長だ。

「おう松齢。交代か。早いな。その水は? 厨の水がめならまだいっぱいだったぞ?」

「あ、これは桂花小姐が――あ、違った、隊正どのが、熱病になるといけないから、夏場は三日に一度は牢の床に水を流して、捕囚もついでに洗うようにと。初めの日に洗ったから、今日は洗う日なんだそうです」

「うちの小姐(おじょうさん)にも困ったもんだ。きっちり縛って籠めてある(もん)を、馬ぁ洗うみてえに気軽に言ってくれるなあ!」と、八か月の常駐勤務を経てすっかり熟練武官気分の伍長が声を立てて笑う。同い年の桂花を早くも崇拝し始めている松齢はむっとした。

「頭領からもそう注意されたんだそうです。後宮典範でそう定まっていたんだそうです」

「後宮典範といや、たしか、牢屋敷内に持ち込む水と食い物は、確か全部毒見をするんだったな。おい松齢、その桶おろせや」

 伍長が桶に充たされた水を素手で掬って飲むと、もう一人も羨ましそうに言った。

「俺も飲んでいいですかね? 喉乾いちまって」

「二人とも、これ咎人を洗うための水ですよ?」

「いいじゃねえか、どっちにしたって司令部の井戸で汲んでいるんだから――」

 伍長がついでにバシャバシャと顔まで洗いながら言い、

「井戸といやおめえ聞いたか?」

 と、声を潜めて訊ねてきた。

「何がです?」

「ほれ、あのお可愛いマダム。俺たちで護衛したあの中書省付塩政家の蝶仙さまがさ」

「え、どうかなさったんですか?」

「なんとな、お邸で井戸に身ぃ投げて自害しちまったんだと」

「え、ええ! あの方が?!」

 松齢は思わず声をあげた。途端、伍長に頭をひっぱたかれる。

「おい馬鹿、声がでけえって。こいつは絶対秘密だぞ? 昨日厨にこっそりおいでなさった判官様が頭領にお話なさっているのを劉大姐が立ち聞きしたんだと――なんでも蝶仙さまはな――」


 また聞きした絶対秘密の噂話を伍長は仔細に語りつくした。そのあとでようやく門扉の閂を開けてくれる。

 この牢屋敷の門扉は内にも外にも閂がついているのだ。

 逆茂木の内に建っているのは、門の左右の番小屋と右端の厨のほかには、五棟の小ぶりな高床小屋だけだ。かつて部屋持ちの外宮女官たちが住まった高床小屋は一辺二丈〔*6m〕で揃えられていたため「方二丈」と通称されていたが、牢屋敷のそれは一辺一丈である。昔日の後宮時代、この小屋には罪を犯した外宮女官や、内宮の女儒や婢が閉じ込められていたのだ――おかげでこの沼地は幽霊譚に事欠かない。

 五棟の小屋は横並びである。

 真ん中のひと棟の前にだけ二人の見張りが立っている。

「松齢? 早いな。なんだその水?」

「ああ、これは――」

 先ほどの説明を繰り返すと、同輩の一人が番小屋からぼろ布と束子を持ってきてくれた。ついでに二人ともまた水を飲む。松齢も一緒に飲んだ。

「そういえばお前聞いているか? 絶対秘密の話なんだがさぁ」

 同輩が訳知り顔で訊ねてくる。

 松齢は得意満面で応えた。

「もちろん聞いていますって! 例の蝶仙さまの話でしょう――」


 若者三人は特に声も潜めずに噂話に興じた。


 その声は階の上の高床小屋の中にまで届いていた――



               ◆


 牢内に水を流して咎人を洗ったあとで、松齢は日暮れまで表門の警備に立つことになった。

ぶんぶんと蚊の飛び回る沼地をぼーっと眺めるだけの警備は結構な苦行である。

ようやく夕の鐘が鳴るころ、思いもかけない小集団が桟橋を渡ってきた。



 先頭の二人は松齢たちと同じ隊服姿の同輩だ。

 これは勿論夜番の交代要員で、二人とも朱で丸に「柘榴」の字の入った提灯を手にしている。


 その後ろから、実に三人もの武芸妓官様が、見まがいようもない白鷺の羽矢を収めた箙を背負って一列になって歩いてくるのだった。


 先頭の一人は桂花小姐だ。これも提灯を持っている。

相変わらず黒髪をきちっとした髷に結って、よく陽に焼けた顔に何となく不機嫌そうな表情を浮かべている。

 しかし、松齢は気にしなかった。桂花小姐は大抵いつも唇を真一文字にひき結び、凛々しい眉をきっと吊り上げ、小さな肩を凛然と張って歩いているのだ。

 いつ見ても凛々しいなあ、と松齢はうっとりと思った。

我らが桂花小姐の後ろを来るのは何と頭領ご自身だ。

 どこにいても目に付くすらりとした長身痩躯と艶やかな黒髪。何度見てもハッと息をのむほど端麗な面立ちをしている。


 そしてもう一人は――もう一人が誰であるのか松齢は知らなかった。

 年頃は三十七、八といったところか、頭領と同じカジャール系の特徴を備えた、これもすらりと背の高い見知らぬ妓官さまだ。

 袴の色は濃紺で帯の色は黒。


「おいあれ――」と、並んで番をしている同輩が怯えたように囁く。「あのお方、もしかして内宮妓官さまじゃ?」

「後ろのお方は――左京衛士の火長さまか?」

 見知らぬ内宮妓官の後ろからは、これも一目でカジャール系と分かる大柄な男がのしのしとした足取りで歩いてくるのだった。背に小型の籐の梱を背負っている。


 門衛の若者二人は硬直した。

 何なのだ、この豪勢な来訪者は? 


「子方、松齢、見張りをご苦労。何か変わったことは?」

 門前にやってきた頭領がじきじきに訊ねてくれる。

「は、はい頭領、ありません!」

 若者二人は背筋をぴんと伸ばして答えた。

 頭領が目尻を細めて微笑う。

「そう畏まるな。妙な時間で悪いが、咎人を検分させてくれ」

「は、はい!」

 松齢は震える手で閂をあげた。一行が入るとまたしっかりと門扉を閉ざす。後に残されたのは交代要員の二人だけだ。

「なあ、今夜は何があるんだ?」

 伍長の子方が堪えかねたように訊ねると、夜番の伍長は提灯に火を入れながら不服そうに応えた。「それが、俺たちも何も聞いていないんだ」


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