第七話 新租界幽霊騒動 7
外へ出ると、土のままの庭の真ん中に大きな水たまりが出来ていた。
秀凰を木戸まで送ったあとで、月牙はひとまず自分の高床小屋へ戻り、文机と書道具を引っ張り出して、明日からの捜査に割く成員の名簿作りにかかった。
洛中一帯で行方不明になっている若い刀筆の官吏を捜すというのは雲をつかむような作業である。めぼしい手がかりがない以上、人海戦術でしらみつぶしにあたるしかないが――桂花率いる第三小隊が牢屋敷の警備にかかりきりになっている今、柘榴隊はとかく人手が足りていないのだった。
――これはひとつ臨時の招集をかけるべきかな……
洛東巡邏隊の隊士は総勢二〇〇名だが、平時に詰めているのは半数の一〇〇名である。元々が半農半武の家の子らである。むやみに臨時の仕事を課すと農作業の人手が足りなくなってしまう。それはできるだけやめるようにと主計所からも内々に申し渡されているのだ――要するに雪衣からだが。
――ある程度あたりをつけてから探せば、たぶん人手は省けるのだろうけど……そうなると、やはりあの忌々しい薬師どのの謎解きを信じるしかないのか?
何となくそれは悔しかった。
--いやいやいけない。そういう私情に惑わされちゃいかん。あの薬師どのがどれだけ忌々しかろうと、常識の通じない珍獣であろうと、たぶんとても頭はいいんだ。折角手がかりを示唆してくれたんだ。ここはきちんと耳を傾けなければ。
月牙は必死で自分にそう言い聞かせた。
――よし! 今から内宮に――あ、間違えた、後宮にあがって薬師どのの御意見を拝聴しよう。
自分を奮い立たせて立ち上がったとき、外から扉を叩く音が聞こえた。
「あのう、頭領―-」
外からおずおずとした声が呼ぶ。
「ん? どうした小蓮。入りなさい」
扉が開いて小蓮が入ってくる。
どうも顔色が冴えないようだ。
月牙は書道具を片付けながら訊ねた。
「何か悪い報せか?」
「はい。あ、いえ、あの、悪くはないんですが――」と、小蓮は珍しくも歯切れ悪く応じた。「そのですね、厨に判官さまがおいでです」
「は?」
月牙は呆気にとられた。
「判官様?」
「はいぃ――」
小蓮が怯えた子亀みたいに首を縮める。
月牙は何を言われているのか咄嗟に理解できなかった。
「判官さまって、ああ、もしかして芍薬殿の?」
そうだ。きっとそうだ。
書類の不備か何かがあって、あの大雑把そうな内宮典薬所の判官様がおん自らお出ましになったに違いない。
期待を込めて訊ねると、小蓮は目を白黒させた。
「え、いや、違います。雪衣さまです。勿論」
「ええー―!」
月牙は堪えきれずに喚いた。
「一人で?」
「は、はい――」
「茜雪は?」
「一緒じゃありません」
「ああーーもう! 何やっているのさ雪は! 今このときに一人歩きなんて正気の沙汰じゃないよ! 紅梅殿の方々はどうして誰も止めてくださらなかったんだ?!」
思いもかけない雪衣の短慮に、月牙は心底憤慨していた。
つい先日命を狙われたばかり――囮とはいえ、主計判官様と信じられている囮を狙った襲撃があったばかりだというのに、護衛もつけずにふらふらと一人歩きをするなど!
--ここはひとつガツンと言ってやらねば!
憤慨しながら厨へ向かうと、なるほど雪衣がいた。
いつも通りの白と薄紅色の官服姿で、床几に腰掛けてのんびりとお茶をすすっている。傍の卓子で、劉大姐平然と豆の莢を剥いていた。
「――感心しませんね主計判官さま」
月牙はわざと堅苦しく声をかけた。「今のこのご時世は分かっておいででしょう? 左宰相公と並んで赤心党の第一の標的とみなされているお方が軽々しく一人歩きをするものではありません」
腰をかがめて顔を覗き込みながら眉をしかめてやると、雪衣は心外そうに朱唇を尖らせた。
「ご挨拶だね柘榴庭! わが友が何やら落ち込んでいると聞いて、秀凰どのにお頼みしてここまで連れてきて貰ったのに」
「え、なんだ。師姉が一緒だったの?」
月牙は拍子抜けた。
雪衣が柳眉をあげて笑う。
「うん。木戸まで送ってもらってきた。帰りは当然月が送ってくれるんでしょう?」
「そりゃ勿論。――今日の評議のこと、師姉が紅梅殿に?」
「いや、私が橘庭に訊きに行ったんだ」
「何をどこまで聞いているの?」
「ええとね――」
雪衣は口を切りかけたが、はっと気づいたように劉大姐を見やって黙った。
大姐が眉をあげる。
「判官様、今日は鶉の卵の煮しめはお召し上がりにならないので?」
「……買ってきてくれるの?」
「お上がりになるのでしたら」
「じゃ、ぜひ頼むよ! 丼半分くらいでいいからね。お釣りは好きに使うといい。折角だからゆっくり昼餉でも食べてくるといいよ」
「ありがとうございます。ではそう致しましょう」
「豆の莢むいておこうか?」
「結構でございます。わたくしの仕事でございますからね」
雪衣が巾着から取り出した銅貨を握って劉大姐が厨から出ていく。
足音が遠ざかりきったところで、雪衣がほーっとため息をついた。
「実に気の利く厨女だね! 部屋付きに引き抜きたいくらいだ」
「残念でした。大姐は外の家から通いだから奥には絶対あがらないよ。で、師姉は何をどこまで話したの?」
「ええとね――」