第一話 ぼたんはどこに消えた? 四
「?」
月牙は秋栄が何を言い出したのか理解できなかった。
「判官様」というのは、双樹下のある程度の格式ある官僚組織の三等官を指す。
つまり、固有名詞ではないのだ。
月牙にとって一番親しみのある「判官様」は、身分違いながら同年配の古なじみとして朋友づきあいを続けている「紅梅殿の判官様」――後宮北院主計所で経理を掌るばりばりの若手実務官僚の出世頭である趙雪衣だが、今も典衣所に所属する秋栄が呼ぶところの「判官様」は、おそらくは「紅花殿の判官様」――装束関係の制作計画と給付を取り仕切っていた北院典衣所の三等官だろう。
――何でそんな方が私を助けてくれるんだ?
月牙も元は後宮外宮に四人しかいなかった「庭の頭領」職を負っていた一人である。実務官の集まりたる北院の歴々とは面識がないこともなかったが……正直、典衣所の三等官の名前までは思い出せない。盛時の双樹下後宮には、上は王太后様に仕える内宮東院の内侍がたから、下は外宮大膳所の雑仕まで、老若貴賎八〇〇名近くの女官婢が奉職していたのだ。小規模な村三つ分くらいの人口があったのだから、関わりのない者同士は面識がないほうが自然である。
――柘榴庭の装束を担当なさっていたのは主典(四等官)どのだったしなあ。
一体全体どういう縁で、この娘は判官様を呼んで来ようなどと思いついたのだろう?
――あ、もしかして、先代の柘榴庭と混合しているのかも知れない!
そう思えばそんな気もしてきた。
「秋栄、たぶん――」
紅花殿の判官様とお親しかったのは、私の前の「柘榴庭様」だと思うよ?
そう正そうとしたとき、
「うわあ、それはいいですねえ!」
思いもかけない声が賛同を示した。
「え? 楊春?」
ぎょっとして見れば、置物みたいに硬直したまま控えていたはずの若い平隊士が、もともと赤い頬っぺたをさらに赤くして円らな目をキラキラさせているのだった。
もしも犬だったら巻き尾をぶんぶん振っていそうな顔だ。
「お針女さま、すばらしいお考えでございます! 謎解きといったら判官様でございますよね!」
「ですよね、ですよね! 謎解き名人判官様! わたくし、一度でいいからこの目でその場を見てみたかったんですの!」
今までのはにかみをかなぐり捨てて、秋栄が水飲み小鳥のおもちゃみたいに元気よく頷く。若者二人は手を打ち合わせんばかりに盛り上がっていた。
月牙は混乱した。
――なんで楊春まで内宮典衣所の判官様を知っているんだ?
まさか親戚だったのだろうか? そして謎解き名人とはなんだ? 何か芝居の筋立てなんかに「武芸妓官と手を組んで悪党成敗する内宮典衣所の判官様」とか、そういう演目があるのだろうか?
月牙の困惑をよそにして盛り上がり続ける若者たちに、マドモアゼルが不審そうに眉をよせる。
〈秋栄、その若い農夫みたいな守備兵と何を話しているんですの? わたくしには聞かせられない話?〉
〈あ、マドモアゼル。違います! 謎を解くために、後宮から判官様を呼んでくる話をしています!〉
秋栄が喜び一杯の顔で答える。マドモアゼルの眉がますますよる。
〈だれです、その判官様という男は〉
〈判官様は女です。彼女は謎を解きます〉
〈へえ。名捜査官というわけ?〉
マドモアゼルが興味深そうに応じる。〈有名な人物なの?〉
〈とても有名です。芝居でも扱われています〉
〈芝居ね。いいでしょう。呼んできなさい〉
「――では柘榴庭さま、師匠の許可もとれましたし、わたくし、ちょっと行って判官様をお呼びしてきます」
「あ、うん。気をつけてね?」
月牙は所在なく答えた。もともと後宮に属していた旧・芭蕉庭から旧・内宮北院までは、築地で隔てられてはいるものの、直線距離にして三町〈約三〇〇m〉程度である。今は後宮の表玄関であるかつての内南門は今も変わらず内宮妓官が警備しているのだから、たぶん危険はないはずだ。
マドモアゼルは秋栄が出るとすぐに卓上の小さな鐘を鳴らした。
途端、おそろいの白地に黒い格子縞の法狼機服をまとった女たちが六人ばかりも部屋へと駆けつけてきた。
〈お呼びでしょうかマドモアゼル!〉
〈よく来ましたねわたくしのお針子たち! 宮殿から高貴なお客人があります! すぐにお茶の支度をなさい!〉
〈はい(ウイ)マドモアゼル!〉
お針子たちがよく訓練された兵卒みたいにぴしっとした応えを返し、たちまちのうちに居間の円卓に茶菓を整えた。
〈さて、ではお待ちしましょうか。その名捜査官とやらを〉
マドモアゼルがゆったりと椅子にかけるとすぐ、玄関から元気のよい挨拶が響いた。
「ボンソワール、マドモアゼル! 何か急用ですか?」
「え?」
月牙は呆気にとられた。
マドモアゼルが目をぱちくりさせる。
〈あら、判官様って雪衣のことでしたの?〉
〈そうですよ。私の官職名です。マドモアゼル・キキ、あなたも同じ官職名を持っていますよ?〉
ゆっくりとした歯切れのよいリュザンベール語で言いながら居間へと入ってきたのは、月牙にもおなじみの「判官様」だった。
袖のゆったりした白絹の上衣と薄紅色の裳。
黒髪をすっきりと結い上げ、円い額を縁取るように紅梅をかたどる一対の飾り櫛を挿している。
卵なりの優美な輪郭と濃く密な睫。
ふっくらとした紅唇をそなえた華やかな美貌――後宮北院主計所、通称「紅梅殿」の三等官たる趙雪衣である。
「ほ、本物の判官様ですか!」
月牙の後ろで楊春が小さく感嘆する。
「ええ本物の判官様ですわ」と、付き従ってきた秋栄がなぜか得意そうに応じる。
月牙の困惑はますます深まった。
旧・外宮典衣所のお針女と北院主計所の若手の出世頭。
楊春と典衣判官のつながりが読めない以上に、関係性が全くつかめない。