第七話 新租界幽霊騒動 3
典薬所の正殿に詰めていたのは督ではなく判官だった。書状を受け取ると「うむ」と頷き、ざっと目を通してから、余白にサラサラと何かを書き足し、無造作な手つきで朱印を押した。
「柘榴庭よ、これを持って西院茉莉花殿へ行け。知っているとは思うが、昔日の外宮典薬所に――世にいう杏樹庭に務めていた外宮薬師たちが、今はあの殿で生薬の栽培と調合にあたっているのだ」
「では、躯の検分には内宮医官ではなく旧・外宮薬師を?」
「ああ」と、芍薬殿の判官は白髪頭をがりがりと筆の尻で書きながら応じた。「内宮の女官を外へ出すのは手続きが面倒だ。実地の検分なら前の杏樹庭が一番だろう。何か不服か?」
「いえ、お心遣い感謝いたします」
西院に入るとなると、今度もまた念入りに持ち物を検められなければならない。しかも、前の外宮薬師の頭領はとかく面倒な性格をしているのだ。
――正直あんまり関わりあいたくないなあ。
内心げんなりしながら殿を出て、紅梅白梅両殿の前の広場へと出たとき、
「ま、待て、柘榴庭!」
背後から聞きなれない老いた声に呼ばれた。
見れば、芍薬殿と紅花殿のあいだの細い路の口から、黄味の強い臙脂の裳衣をまとった白髪の老女官が、おぼつかなげな足取りで駆けだしてきたところだった。
走る姿が全く似合わない、見るからに品の良さそうなうりざね顔をした老女である。白髪を小さな髷にまとめ、結い目に鮮やかな黄の菊のような花を飾っている。
今は夏である。
髪の花はもちろん菊ではない。
紅花である。
月牙は愕いた。
「紅花殿さま?」
呼ばわるなり、老女官はびくりと全身を強張らせた。
「あ、ああ。そなた、当代柘榴庭だな?」
「いかにも」
腰をかがめて恭しく応じると、老女官は――内宮典衣所たる紅花殿の督は、何か縋りつくような目つきで月牙を見上げてきた。
「のう柘榴庭よ、紅梅殿の判官と我々のところの針女を囮として赤心党の襲撃者を捕らえたというのはまことなのか?」
紅花殿の督の声からはこわばった怯えが感じられた。
――ああなるほど! この方は秋栄の身を案じていらっしゃるのか!
そう気づくなり、縁者に仔細を報せずに作戦を進めたことが申し訳なくなった。
月牙は慌てて首を横に振った。
「紅花殿さま、どうかご案じ召されるな。このたびの捕り物には、なるほど紅梅殿の判官さまと典衣所の御針女どののお名こそお借りしましたが、実際に囮となったのは柘榴庭の旧・妓官です」
「では、赤心党を捕らえたというのは」
「ええ、無事捕らえました。昔日の柘榴庭に付随の牢屋敷に捕縛し、これから尋問を進めるところです。判官さまにもお針女どのにも、もう何の危険もございませんよ」
顔を覗き込むようにして宥めても、老女官はまだ眉間に深い縦皴を刻んでいた。よほど秋栄を案じていたのかと思うと、月牙は心底すまない気持ちになった。
--こりゃ一度紅梅殿さまのところにもお詫びに上がらなけりゃな。
あちらはあちらで「雪衣といったら柘榴庭」と妙な信頼を預けてくれて、雪衣を貸して欲しいと頼めば大抵のことなら二つ返事で了承してくれるのだが――だからといって心配していないこともないだろう。敵の姿が見えない以上仕方がないとはいえ、あんまり秘密主義なのもよくないかもしれない。
「――柘榴庭、針女はまだ新北宮に?」
老女官がこわばった声で訊ねてくる。
「ええ。帰路の護衛は手厚くしますよ」
「では、戻ったらすぐこの紅花殿のもとへ来るようにと伝えてくれ」
「承りました」
恭しく応じると、老女官はようやく安心したように頷き、森のなかから慣れない空き地に飛び出してしまった鹿のように周囲を警戒しながら、おぼつかない足取りで殿へと戻っていった。