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第七話 新租界幽霊騒動 2

秀凰はすぐに戻ってきた。

「督がじかに話を聞きたいそうだ。ご面倒だが北院に上がってくれ」

「承りました」

 木札を半分に割った割符の一片を受け取り、来訪者の名簿に名前を記す。

 名簿の右に書かれている名の在所が「蘭渓道院」だった。あちらから使者でもあったらしい。

「ああそうだ、当代柘榴庭に求めるのは気が引けるが、念のため、刀の鞘と箙の内を検めさせてくれ」

「随分警備が念入りなのですね」

「当然だ」と、秀凰が生真面目な顔で応じる。「何といっても今は西院梨花殿に御子がいらせられるのだからな」

昔日(むかし)から妓官が最も気を張る時期は、主上の初めの男御子が七つになるまでこの宮でお育ちになる、その間なのだよ」

「その場合、最も警戒するのは外部からの毒物の持ち込みなのだ。むろん師妹を疑うわけではないが、こういう検めに例外を設けてはいかんのだ」

「なるほどーー」

 月牙は感じ入った。


それなりに長く経験を積んできたと思っていたが、自分はどうやら妓官として一番大変な時期は知らずに終わっていたらしい。



 久々に入る後宮内―-かつての内宮の築地の内――は、全く変わっていないように見えた。媽祖堂前の石畳の広場をよぎり、足になじんだ石段を下って、ひょうたん型の大池に架かった朱塗りの太鼓橋を渡る。


 北院の表門は開いたままだった。

内宮妓官が一人だけ警衛に立っている。

「おお、当代柘榴庭か。久しいな。割符はあるか?」

「こちらに」

「何か持ち込むものは?」

「とりたてて何も」

「そのようだな。通れ」


 門を入れば、正面の左右に白梅、紅梅の両殿の正門が並んでいる。後宮公文所と後宮主計所。自ら荘園を所有して経理を営む双樹下国後宮の実務的な中枢である。内宮妓官の在所である橘庭は紅梅殿の右隣で、こちらは築地ではなく竹垣で囲まれている。

表門にあたる木戸でまた身辺を検められてから入ると、正殿の階の前で橘庭の督たる宋金蝉が自ら待ち受けていた。傍らに次官の安飛燕もいる。

「聞いたぞ月牙、お手柄じゃったな! 梨花殿さまのご生国を誹謗する何たらという輩を捕らえたのであろう?」

 秀麗な老女は月牙を見るなり上機嫌で笑って肩を叩いてきた。

「上がれ。仔細を聞かせてくれ」



 階を上って廊をよぎり、内々の場らしい奥の房へ導き入れられる。

「坐れ。祝杯じゃ。のう飛燕、北塞の黍の酒はまだあったかのう?」

「督よ、柘榴庭は未だ務めのさなかでしょう。酒はいけません」

「そうなのか?」

「残念ながら。これから咎人が護送されて参りますし、他にもいろいろと面倒ごとが」

「何じゃ」

「実は――」


 囮作戦の成功から左京衛士たちの横やりまでを手短に説明すると、金蝉は心得顔で頷いた。

「なるほど、なるほど。それで橘庭(こちら)に訴えを持ち込んできたのか。そういう事情ならば、取り調べはこの橘庭が引き受けよう」

「督、今の我々にそのような余裕は到底ございませんぞ?」

「なに、形ばかりのことよ。尚書令には後宮で取り調べると通達したうえで、目付でも一人つけて、実際の検断は柘榴庭と、そのゲレルトの左京衛士の火長が行えばいい。そんなところでどうじゃ?」

「有難いお計らいです。どうもご面倒を」

「なに、かまわん。あの忌々しい洛中慎家の若当主の鼻を明かしてやるためとあれば、この宋金蝉、どんな助力も惜しまんて」

「気張れよ月牙、柘榴庭の名誉にかけてな」と、(さき)の柘榴庭たる飛燕が言い添える。月牙は背筋が引き締まる思いだった。


「して飛燕、そのような手はずとなると、まず入用な公文書は尚書省あてかの?」

「加えて左京兆府あてですな。柘榴庭の話では、下手人の躯を左京兆府が引き取っているそうですから、芍薬殿からも医官を借りる必要がありましょう」

「おお、忙しないな。芍薬殿への書状は今書いてしまおう。飛燕、祐筆を呼べ。月牙、お前はしばし待て」

「は」

 芍薬殿とは後宮内の医薬を司る内宮典薬所の雅称である。

 橘庭の主従は忙しなく出て行った。



 月牙が所在なく奥の間で待っていると、金蝉付きの顔なじみの女儒が、北部風の熱い黒茶と粽を持ってきてくれた。

「これはかたじけない」

「柘榴庭どの、久しいなあ。麗明どのは息災か? 若い妓官がたも」

「ええ、みな元気にしておりますよ。桂花が大手柄を立てました」

 桂花たちの母親ほどの年配に見える女儒は、ふくよかなほほに靨をくぼませて笑った。

「そうか、そうか。息災ならよかった。ところで、ひとつ訊きたいことがあるのだが」

「何でしょう?」

 茶を啜りながら、月牙はわずかに警戒を感じた。


 

 ――女儒たちの情報網は侮れないからなあ。



 うっかり何か話せば、どんな秘密も今日のうちに後宮中の厨に広まってしまいかねない。


「いやなに、表向きのことではないよ」と、女儒は苦笑した。「私もそれなりに奥仕えが長い。表のことは聞かないのが奥向きのたしなみだ。訊きたいのは煙草のことなのだ」

「煙草、ですか?」

「ああ。実は先日前の桃果殿さまから――蘭渓道院さまから煙草の葉のご下賜があってな。何しろ新奇の品ゆえ、どう扱うものやらとんと分からんのだ。見たところ乾した葉のようだが、茶のように煎じて飲むのかな?」

「私もよくは知りませんが、飲んでいるのを見たことはありませんね。煙管という竹の管の先に詰め、火を点じて煙を吸い込むものでしょう」

「ははあ、煙を」

 女儒は分かったような分からないような表情(かお)を浮かべた。

 月牙は粽を頬張りながら笑った。

「もしよければ煙管を手配しますよ」

「いやいや、柘榴庭どのにそのような雑用はたのめん。どこに注文すればいいのか教えてもらえればいい。舶来品なのだろう?」

「おそらくはそうなのでしょうね。上等の品を求めるなら副領事館を介して海都から取り寄せるのがよいでしょう」

「それは物入りだの。上等の品でなければ?」

「そうですね――」

 南大辻の奇瑞商行を勧めるかどうか迷っていたとき、表の間から飛燕が戻ってきた。

「来い月牙。芍薬殿への書状はお前が持っていけ」


 芍薬殿は白梅殿の左隣で、細い路を隔てて紅花殿とも隣り合っている。月牙が書状を届けに向かうと、入口で再び念入りに持ち物を改められた。

 万が一、万万が一にも御子の毒殺など起こしてはならぬという内宮妓官の気概が感じられる警備だ。誰にも讃嘆されないままこれを七年続けるのかと思うと、月牙は頭の下がる思いだった。

 

 ――派手な大捕り物なんかよりずっと大変な仕事だ。

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