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第六話 トリコロールの捕虜警備 8

 見れば、いつのまに駆けつけてきたのか、 九龍と小蓮が全く似ていない父子みたいに並んで戸惑い顔を浮かべているのだった。


「身内?」

 月牙も戸惑った。

 目の前の男はどう見たってカジャール系ではない。

 九龍はどうしてこの八字髭を身内だなどと思ったのだろう?」


「違うのか?」

「勿論。私はてっきりお前の(アミ)なのかと」

 友というリュザンベール語に所有格をつけると時として恋人を意味することを不運にして月牙は知らない。言われるなり九龍はうろたえた様子で両手を左右に振った。


「え、いや、俺にそういう趣味は。どこでそんなでたらめを聞いてきたんだ?」

「いや、聞いてはいないけど? 趣味って――まさか、髭が!?」


思いもかけない文化的差異(カルチャーギャップ)に月牙は驚愕した。

「ええ、海都人ってそうなの? 髭の有無で友を選ぶの?」

「いや、髭はどうでもいいんだ。髭以前の問題としてだな」と、九龍が言葉を切り、はっと何かに気付いたように目を見開く。「柘榴庭どの――」

「頭領」

「すまん頭領、根本的なところで大きな誤解があるようだが、あんたが女だってことは勿論承知しているからな?」

「? 当たり前だろう。元・妓官なんだから」

 全くもってかみ合わない会話を交わしていると、



「……おい月牙!」

 人質どのが立ち上がりながら焦れたように怒鳴った。「お前どういうつもりだ? まさかお前あれか、今の男に昔の話はひた隠しにしているのか?」

「は? 今の男って、九龍さんが頭領の?」と、小蓮が心底嫌そうに顔をしかめる。「頭領、この人いわゆるアレじゃないですかね? 通りすがりに頭領見かけて、キャー目が合っちゃった運命よって思い込んで前世から知り合いだったと信じちゃうあの可哀そうな人たちのお仲間だったんじゃ?」


「あ、なるほど!」

 月牙は納得した。

 まがりなりにも傾国の美女とまで呼ばれた十三歳だったのだ。月牙の人生において、その手の不審者は雨期のやぶ蚊ほどにも珍しくない。


「え、そういう輩だったのか?」

 九龍がうろたえ、月牙の腕をつかんで背後に庇おうとする。

「さがっていろ。近づかないほうがいい」

「いやでも、見たところそんなに危険そうでも」

「不審者は不審者ってだけで十分危険だろうが!」


「おい門衛、誰が不審者だよ?」

 忘れられた若蘭が不服そうに言い、「髭か? 髭がいかんのか?」と、鼻の下の八字髭をべりッとむしり取った。


「おい見ろ月牙、これなら分かるだろ? 俺だよ。衛若蘭だよ!」



「え――」



 名乗られた瞬間、月牙は絶句した。


「若蘭……さま?」


「さま!?」

 九龍が絶叫する。小蓮が眉を吊り上げて長身の男を睨む。「九龍さん煩い! 頭領、その人本当に知り合いだったんですか?」


「だからそうだと言っているだろう?」

 若蘭が得意そうに応じる。


 気が付けば、橋の上で荷車に躯を積んでいる衛士たちも、監督する郭瑞宝と牢医師も、捕虜を囲んだ第三小隊も、彼らを率いる桂花も、それぞれの作業を進めながらも、興味津々といった様子でしきりとこちらを盗み見ているのだった。


 まさしく衆人環視である。

 月牙は怯えを感じた。


 頭の中に遠い昔のひそひそ声が蘇る。



 ――ほら見ろ、あれだよ。あれが例の衛家の……

 ――ああ、あの性悪な小娘か。義理の息子を誘惑した北夷の……



 違う、と十五歳の月牙が心の中で叫んでいた。

 私は誰も誘惑なんかしていない。

 男たちが勝手に群がってきただけだ。

 そう言うと女たちは私が傲慢だと言う。

 みんなが私を嫌う。

 私が女であるかぎり、みんなに嫌われるんだ――



「頭領」

 九龍が月牙の腕をつかんだままごく低い声で呼んだ。

「誰なんだ? その男は」


「昔の姻戚だよ」

 月牙は自分でも意外なほど平坦な声で答えていた。

「私は十三のときに、その若蘭さまの御父君に嫁いだんだ。私にとっては父というより祖父の齢の夫だった。二年待たずに夫が死んで、私は衛家を出されたから、今はもう他人といえば他人だ」

 答えながら、月牙は自分が思いのほか落ち着いていることに驚きを感じていた。

 

 ――大丈夫だよ月牙、と心の中で誰かが笑っていた。大丈夫だ。ここにいる人たちはみな敵じゃない。大事な部下と友たちだ。本当のことを打ち明けたところで、お前を嫌ったりはしないよ……


「ああ、前に聞いたお話ですね」と、小蓮が頷いた。不自然なほどの無表情で感情を隠しているようだ。

「――なるほど、本当の縁者だったのか」と、九龍が硬い口調で応じ、はっと気が付いたように月牙の腕を放すと、若蘭に向けて深々と頭を下げた。

「衛若蘭さまと仰せか、知らぬこととはいえ、ご無礼を申し上げた。遠い縁だというのによくぞご助力くだされた。改めて感謝いたす」

「右に同じく、でございます」

 小蓮がぎこちない口調で言って、こちらも深く頭を下げると、遠目に見ていた桂花もちょっとお辞儀をした。


 若蘭は呆気にとられていた。


「--おい、お前ら愕かないのか? お前らのご立派な頭領は単なる女だったんだぞ? 昔は赤い絹の服を着て、祖父ほど年上の夫の枕頭に侍っていたんだぞ?」


「それが何だと言うんだ?」と、九龍が低く唸るように応じた。「さっきも言ったが、柘榴庭どのが女であることは初めから百も承知だ」

「当たり前ですよ。武芸妓官の頭領なんだから」と、小蓮があきれ果てたように言う。「男だったらむしろ大問題ですって」

「赤い絹の服だったら、頭領は毎年着ていたぞ!」と、桂花が遠くから口を挟んできた。「秋の柘榴の献上祭の衣装はいつも赤だったんだ!」

「あ、あの衣装私大好き! ねえ頭領、今年はあれもう着られないんですか?」

 小蓮がごく自然な口調で訊ねてくる。

「どうかな。今から内宮――ああ間違った、後宮北院に奏上に行くから、ついでがあったらお聞きしてくるよ。小蓮、馬を頼む」

「はい、すぐに」

「こちらの若蘭どのの処遇は? 後宮からの諮問もあるだろうし、このまま司令部(カルチエ)にお呼びするか?」

「いや、とりあえず今日は御帰宅いただけ。九龍、念のため御在所までお送りしろ」

「承った」

 九龍もごく自然に答える。若蘭はまだ何か言いたそうだったが、結局何も言わず、フンと鼻を鳴らして背中を向けてしまった。九龍が慌ててその背を追う。

「若蘭どの、お住まいも南大辻か?」

「いらんよ護衛なんぞ! 俺のことは放っておいてくれ!」

「そうはいかん。頭領の命令だ――」


 遠ざかる二つの背中を見送りながら、月牙は全身のこわばりがふっと抜けていくのを感じた。

 気が付かないままずっと張り詰めていた心が、今初めて解き放たれたような気がした。


 ――ああ、私は女だ。女であって頭領でもあるのだ。私以外の誰にとっても、そんなのは当たり前のことだったのだ。


そうだよ、と心の中の誰かが笑った。

赤い絹の衣をまとい、唇に紅を指し、黒髪を長く解き流した人形のような女――ずっと内心の深いところに閉じ込めていたかつての自分自身が、久々に仰ぐ初夏の陽の明るさを眩しがっていた。


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