第六話 トリコロールの捕虜警備 5
門櫓の二階の屋の内へ入ると、板の間に幾筋かの白く鋭い光が射していた。
橋の側の壁に並んだ矢狭間から射す光だ。
光の筋の中をキラキラと埃の粒が舞う。
歩み寄って覗くと、眼下の状況が容易く見てとれた。
幅三丈、長さ十丈の板橋の真ん中あたりで、聞いた通り、九龍と見知らぬ壮年の武官が打ち合いを始めている。
相手の装束は藍の衣と袴で、髷に被せた黒い頭巾の根元を白い組紐で結わえている。襟に抜かれた「左京」の二字。
一目で分かる左京兆府の衛士だ。
そのうえ、カジャール系だ。
――まずいな、と月牙は思った。
これは思ったより根の深そうな諍いだ。
三〇〇年ばかり前に双樹下に服した北方騎馬民族であるカジャール族は現場の下級指揮官にはかなり多い。月牙と九龍がどちらもアガール氏族であるため、「洛東巡邏隊はアガール閥」とみなされている。
――左京衛士はゲレルト系か? 桂花は一応ゲレルトとの混血だけど――見た目が全然カジャールっぽくないからな……
アガールとゲレルトの諍いだったら第三者たるサルヒ氏族が仲裁するのが最も望ましい。今からでも麗明を呼んでこようかと思いかけたが、月牙はすぐにその考えを振り払った。
今この状況を宮の奥になど伝えたら、竜騎兵の口から必ず槙炎卿の耳に届いてしまうだろう。洛中での武官の私闘はご法度だ。下手をしたら九龍が官位を失いかねない。
――それは駄目だ。隊の幹部が足りないと分かったとき、絶対に信用できる有能そうな同族だと思って九龍を推したのは私自身なんだ。私はあれの人生に責任がある。
重くのしかかる責務の意識が、月牙をむしろ奮い立たせた。
向き合う二人のすぐ向こうでは、躯を蔽うと思しき筵を柘榴隊士が取り囲み、青鈍色の裳衣姿のつつましやかな若い太太みたいななりをした桂花が、顔を血に赤黒く汚したまま、抜身の刀を手にし、足元に坐らせた紺の袍姿の老人の首元に切っ先を突き付けていた。
――あれがこっちの人質か。
小蓮の言うところの「左京兆府のお爺さん」だ。
どう見てもカジャール系ではないし、全く武官にも見えない。身なりは結構いい感じだ。まさか左京兆さまご自身じゃないよな――と、想像して、月牙は慄いた。
――いやいやまさか。たぶんそれはない。そんなにお偉い方が気軽にトコトコお出ましになんかなるはずはないし!
たぶん絶対ないはずだ――と、怯えた小鳥のように震える心を必死で宥め、改めて眼下に集中する。あの謎のお爺さんがこちらの人質として、あちらに人質にとられている「若蘭さま」とやらは何処にいるのだろう?
それらしき人物はすぐ目に入ってきた。
洛外側の橋のたもとに藍の装束の左京衛士が群がり、猿轡をかませた捕虜らしき塩売りを取り囲んでいる。
その左隣に妙に色鮮やかな人物がいた。
白いシャツと青いズボン。真っ赤なジレと黒天鵞絨の蝶結び。
鼻の下に大きな八字髭を生やしている。一目で分かる奇瑞商行の雇人だ。気の毒に、膝立ちにされ、手を後ろに縛られて、二人の近衛士に左右から切っ先を突き付けられているようだ。
間違いなくあれが人質だ。
月牙は安心した。
どう見てもあれは月牙の知っている「若蘭さま」ではない。
耳を澄ませば、悲痛な叫びまで微かに聞こえてくる。
「おいお前たち、放してくれー―! 俺は単なる使い走りだ! ちょっと伝言を頼まれただけで、そいつらとは何の関係もないんだよ――!」
叫びは泣き声だった。
ごめんね若蘭さん、と月牙は心の中でわびた。
改めて橋の真ん中に視線を戻せば、二人の男が刀を打ち合わせたまま、ぎりぎりと力を籠め合っているのが見えた。
力勝負は互角のようだ。
――たぶん、もうじき離れるな。
思うなり、月牙は心を決めた。
まずはあの二人を止めねば。
矢狭間を並べた両開きの扉には閂がかかっていた。
上に埃が溜まっているところを見ると、この頃しばらく開けられていなかったのだろう。平時にはこの門には衛士はおかれない。
――となると、左京兆府の連中、初めから獲物を横取りするつもりで陰から見張っていたのかな?
そう思うとむかむかした。
とめる立場になかったら、今すぐ九龍に助太刀してやりたい。
門扉を開けるなり目を灼くような光が差し込んできた。
月牙は眩しさに一瞬だけ怯んでから、間髪入れずに露台から飛び降り、右手の一番手前の欄干の擬宝珠へと降り立った。
擬宝珠を蹴って二番目へ、さらに三番目へ。
四回の跳躍を繰り返せば決闘者たちは目の前だ。
男二人の荒々しい息遣いに重なって、カッカッと刃の触れ合う音まで聞こえてくる。
四度目、月牙はひときわ高く跳び、刀と刀が離れた瞬間、決闘者二人のあいだに降り立ちながら自らも抜刀した。
「――頭領!?」
ここに至って桂花がようやくに叫んだ。
「ざ、柘榴庭どの――……!?」
九龍もたった今気づいたような叫びをあげ、月牙へ向けて振り下ろしかけた刀をすんでのところで止める。もう一方の刀はそのまま振り下ろされてきた。月牙は脚を大きく開いて体勢を低くし、刀を横にして上からくる刃を受け止めた。
「頭領――!」
桂花が上ずった声で叫ぶ。
ガッと激しい打撃が手首から腕へと伝わり、腰から足の裏にまで鋭い震えが走る。
下から見上げると、目の前の武官はずいぶん大きく見えた。
目じりや口元に深い皴の刻まれた浅黒い痩せた貌――一目で分かる熟練の下級武官だ。その目がまじまじと見開かれている。
「――柘榴庭、どの、か?」
「ああ」
月牙は渾身の力をこめて刃を受け止めながら応えた。全身が燃えるように熱かった。額の真ん中に汗の粒が浮かんでくる。
「左京兆府の火長どのだな? 私は蕎月牙。世にいう柘榴庭だ。わが隊の者どもが面倒をかけた。この柘榴庭の名に免じて、ひとまず刀を収めてくれるか?」
額の汗の粒が盛り上がって鼻梁へと流れてきたとき、相手の力がふっと緩んだ。
「仰せのままに。猛きアガールの姫御よ」