第六話 トリコロールの捕虜警備 3
室内は四丈[訳12m]四方ほどの板の間だった。
向かい壁に縦長の格子窓が並んで、その先が露台になっているようだ。今入った扉の左右に、揃いのあっさりした水色のリュザンベール服をまとったこの宮の女官が控えている。右隣が続き部屋らしく、そちらへ続く扉のない出口の左右にも同じ装束の女官が二人いた。
四人のうち二人がリュザンベールとの混血で、一人はタゴール人だ。もう一人は双樹下人のように見えるが、もしかしたら西隣の香波人かもしれない。
室内には沢山の婦人たちが群れ返っていた。
半数は色とりどりのリュザンベール服で装ったマダムたち。半数は双樹下風の服装の小間使いたちだ。
部屋のそこここに長椅子や床几や円卓が据えられ、マダムがたが三々五々、小さな白磁の茶碗を手にして菓子をつまんでいる。中に数人、銀の吸い口を付けた黒竹の筒を加えて煙を吐き出している者もいた。
――ああ、煙草かと、月牙はようやく気付いた。
喫煙は京洛地方ではここ一年のあいだに急速に広まりつつある新流行だ。南蛮渡りの葉は極めて高価であるため、そう滅多に目にすることはないが。
煙管を手にしているマダムの殆どは中央にいた。
彼女らが取り囲む三人がけの長椅子の真ん中に、ひときわ目を惹く装束に身を包んだ丸ぽちゃのマダムがいた。
他のマダムたちの殆どが、メゾン・ド・キキで急遽大量生産された同じ型の単色のドレスをまとっているのに、真ん中の彼女だけは、白と淡紅色と鮮やかな紅の三色を取り混ぜた凝った衣裳を身に着け、黒髪を大きく膨らませるように結って、銀と真珠と絹で作られた精巧な紫薇の造花をたっぷりと飾り付けている。
彼女が誰か――など、考えるまでもない。
月牙は慌ててひざまずいた。
「御久しゅうございます。前の紫薇殿さま」
「うむ。よう来たの柘榴庭。紅梅殿の判官はまぁだ来んのか?」
「相すみませぬ」
「あれはどうも昔から玉楊ばかりを重んじる。あんな卑賎の婢、万が一にも洛中槙家に迎えるとなったら厨の水仕女で十分じゃ! 僻地の小商人の娘風情が、兄上さまの気まぐれでちっとばかり目をかけられたからといって思い上がりおって!」
前の貴妃がフンと鼻を鳴らすと、周りを取り囲むマダムたちが一斉に声を立てて嗤った。
やや離れた窓辺の椅子に紅色の衣の蝉玉がいた。左右に芳春と蝶仙を連れ、キリキリと眉を吊り上げて中央の長椅子を睨んでいる。
どうもこの部屋のマダムたちは明瞭に二勢力に分かれているようだ。
美貌を武器にのし上がってきた若き姨太太たちと、それなりの名家の出自の尊夫人たちだ。
前者の頭目が蝉玉で、後者は当然前の貴妃さまなのだろう。そして、前の貴妃さまは、おん兄君と同様に、洛中で人気の「柘榴庭」を自らの装身具に加えようとしている、というわけだ。雪衣を加えないのは――単に嫌いだからだろうか?
―-厭な空気だなあ。
月牙は心底うんざりとした。
ここには「女」の最悪の部分が蟠って淀んでいるような気がした。昔日の後宮にもこういう澱みはあったが、少なくともあの場所には厳格な秩序と静謐さと、抗えない何かを受け入れた者の高貴な悲哀があった。
――ここは昔の後宮の不出来な模倣品みたいだ。あの場所にあった美しさ高貴さを何一つ残さず、最悪の部分だけを残してしまっているようだ。
前の貴妃は月牙が追従を口にするのを待っているようだったが、何も言わずにただ立っていると、じきに焦れたように顔を歪めた。
「柘榴庭、何を黙っておる」
「いえ」
月牙は咄嗟に詫びようとしたが、どうしても声が出なかった。
前の貴妃は詰まらなそうに鼻を鳴らすと、犬でも追っ払うように煙管を振って命じた。
「さがれ。興ざめじゃ。そなたまことに見目のみよのう」
「相すみませぬ」
月牙はどうにか声を絞り出した。
機械的な礼を残して部屋を出ると、麗明が心配そうに声をかけてきた。
「ずいぶん早いな。紫薇殿さまのご機嫌を損ねたのか?」
「麗明、紫薇殿さまじゃない。前の紫薇殿さまだよ。今は礼部員外次官のマダムだ。そんなに礼を尽くすべきお立場でもないよ」
「そうはいっても前の貴妃さまだ。そのうえ洛中槙家の姫君でもある。――月牙、ここは内緒話には向かない。内輪のことを話すなら玄関まで送るよ」
「ありがとう」
昨年の一時期、まだパレ・ド・ラ・レーヌと呼ばれていた新北宮に常駐していたために、麗明はこの宮の構造にきわめて詳しい。どこに耳目があるか分からないのは、この世の何処の宮でも変わらないようだ。
「しかし驚いたよ。さすがに進取の気風に富んだマダムがただね。あんなに多くの方が煙草を嗜まれるとは思わなかった」
緋毛氈を敷いた廊下を歩きながら告げると、前を行く麗明が振り返らないまま答えた。
「ああ、あれは蘭渓道院さまからのご下賜があったんだ」
「蘭渓道院さま?」
月牙は愕いた。
東崗の蘭渓道院は、転輪道という信仰に帰依した太上王后さまーー当代国王の祖父の后だった前の王太后さまの住まいである。「蘭渓道院さま」という表現をした場合、それは太上王后自身を指すことになる。
「蘭渓道院様がマダムがたに煙草をご下賜なさったの?」
「そうなんだ。ほら、いまあの道院には前の芙蓉殿さまが身を寄せていらせられるだろう?」
「そういえばそうだったね。芙蓉殿の李貴妃さまは――中書令たる右宰相公のご一族か。蘭渓道院さまは秦氏だよね? 前の芙蓉殿さまとはご血縁があるのかな?」
「母方の御繋がりらしいよ」
いまの内宮妓官の督が宋氏である関係か、麗明はわりと貴顕の家々の血縁に詳しい。答えてくれるということは、この廊下での内緒話は安心なのだろう。
「なんでも、主上は前の貴妃さまがた全員に、秋の大舞踏会に御加わりになるよう内々にお手紙を出していたらしいんだ」
「それは――結構無神経だね」
「私もそう思う」
「でも、御加わりになったのは前の紫薇殿さまだけだったわけか」
「うん。石楠花殿様は東院の内侍におなりだし、茉莉花殿さまはとうに御国元の補陀落の藩侯の御領国にお戻りだから、ご上洛なさるだけで一か月はかかるしね」
「そして前の芙蓉殿さまは、太上王后様を師として転輪道に帰依なさるおつもりなんだよね?」
「専らそういう噂だね。だけど、主上は蘭渓道院にもお手紙をお送りになった」
「それで蘭渓道院さまは舞踏会のことをお知りになったのか」
「そういうことらしい。それで、だれがお耳に入れたのか、リュザンベールの貴婦人たちはこの頃煙草をよく嗜むとお聞きになったらしくてね。南蛮商人の会堂からまとめて注文なさって、踊りの稽古にいらせられたマダムがたに一包ずつ賜るよう、この宮にお送りになられたんだ」
「それ、確証はとれているの? つまりさ、本当に蘭渓道院からって」
「そこは竜騎兵が確かめたよ。中身は今朝から私たちが全部確認した。大社領隊の仕事が信用ならない?」と、麗明がやや気を悪くしたように言う。月牙は慌てて謝った。
「ごめん、ごめん。勿論信用しているって」
大社領隊というのは、麗明の率いる柘榴隊第二小隊の通称である。名の通り、北部の後宮領である媽祖大社領から召された隊士たちからなる。この隊の出身地は遠方であるため、第一隊とは違って三か月交代だ。