第五話 空蝉の術 4
南大辻から新租界まではさほど遠くない。
若蘭は歩きながらポシェットから黒天鵞絨のリボンを引っ張り出して襟元に結んだ。
やがて着いた外砦門の前には四人の門衛が出ていた。
白いシャツに黒いジレ。
黒い細いズボンと緋色のサッシュ。
一目で分かる柘榴隊士だ。
奇瑞商行の店の近くを――何の用があるのか――いつもうろうろしている連中だ。
ずんぐりむっくりした赤い頬っぺの田舎の坊やの群れだ――と今年三十の若蘭は産毛に蔽われた白桃みたいな若者たちの頬を軽蔑した。断じて若さを羨んでいるわけではない。男は三十からだ。
若蘭が門へと近づくなり、左手の坊やが意外に俊敏に動いて門前に立ちはだかった。
「旦那、行商かい? 精が出るねえ。悪いけど今日は昼まで自由には入れないんだ。なにか身分証があるかな?」
坊やが意外に世慣れたことを言う。
若蘭はむっとした。
「おい若いの、俺は会社の上級の事務員だぞ?」
「そ、そ、そしえてのすくれてえる? ですか?」
若いのがびくびくと繰り返す。
若蘭は鷹揚に頷くと、編み笠を外して付け髭を撫でながら命じた。
「急な報せがある。すぐに上官を呼んでくれ」
「す、す、す、すぺりおおる、ですか?」
若者はさらにどもり、
「は、はいただいま、そしえてのすくれてえるどの!」
と、言い置いて奥へと駆けこんでいった。
若蘭は何かに拍手喝采したくなった。
リュザンベール語万歳!
――なんだかよく分からないがどうやら偉そうだ――と、若者たちは判断したらしく、門前に床几と茶を運んできてくれた。
上等の海南白茶だ。
初夏に炎天下で飲むには少々熱い気もするが、そんなことはどうでもいい。
これは高いのだ。
若蘭は嬉しくなった。
――うん。これでいい。俺はようやく正しい地位に戻ろうとしているのだ。
すっかり満ち足りた気分で、額に汗を浮かべながら茶を啜っていたとき、
〈秘書官殿、お待たせしてすまない!〉
門の内からやたらにいい感じに渋い男の声が、やたらに流暢なリュザンベール語で呼びかけてきた。
――え、本物のリュザンベール人が来ちゃったの?
慌てて顔を上げるなり、若蘭は嫌な気分になった。
外砦門から現れたのは、一目でカジャール系と分かる長身の男だった。
痩せてはいるが骨格のたくましい長躯を白いシャツと黒いジレ、黒い細身のズボンに包んで、緋色のサッシュを結び、首には白麻のクラバットを巻いている。
年頃は若蘭と同じほどか、カジャール系に特有の眼窩の深い面長の輪郭を備えた苦み走った男前である。
つややかな黒髪をサッシュと同じ緋の紐で束ねた長身は実に水際立っていた。周りの坊やたちが気持ち悪いほどうっとりと見惚れている。
男が夢見る良い男の典型みたいな男だ。
若蘭も一瞬見惚れかけて、はっとわれに返った。
――いや、俺だって顔はいいはずだ。色白の役者みたいな佳い男って妓は大抵褒めてくれるし!
若蘭を目にしたカジャール男は、目に見えて拍子抜けたような表情を浮かべた。
「なんだ、奇瑞商行か」
さらには若蘭の手元の茶を見てあからさまに嫌そうな顔をし、傍に控える若いのを声も潜めずにしかった。「白茶を気軽に出すなよ。高いんだぞ?」
「す、すみません隊正どの!」
若蘭はむっとした。高価い茶を俺に出しちゃいけないってのかよ?
「--おい門衛、その態度はあまりに無礼が過ぎるんじゃないか? 俺は単なる売り子じゃない。上級のスクレテールだぞ?」
「そいつは失礼、事務員殿。某、洛東巡邏隊校尉によって同隊第四小隊隊正に任じられている杜九龍と申す」カジャール男は不機嫌さをみじんも隠さずに名乗った。「お急ぎの用と聞いたが、商いで何かおありか?」
「いや、商行は関係ない」若蘭は声を潜めて囁いた。「話があるのはあんたたちの〈空蝉の術〉とやらについてだ」
告げるなり、九龍の顔が微かにこわばるのが分かった。
冷静そうな表情を取り繕っているが、明らかに目が泳いでいる。
あまつさえチラチラ左右を気にしてさえいるようだ。
見た目のわりに肝の細い男だ。
若蘭はニヤリと笑った。
「立ち話もなんだろう。司令部に入れてくれ。あの女が大事なら急いだほうがいい」
「――分かった。入れ」
九龍は囁き返すと、案じ顔の若者たちに、
「お前たち、他言無用だ」
と、短く命じるなり、若蘭を伴って外砦門の内側へと入った。
じつにきびきびしている。
若蘭はしみじみとした憐れみを感じた。
――なぁるほど。この色男が本当の現場の責任者ってわけか。月牙、お前、思った以上に単なるお人形なんだなあ。
「事務員殿、名前は?」
門の左手の木戸へと向かいながら九龍が小声で訊ねる。
緊張と警戒に満ちた声だ。
若蘭は愉快になった。
警戒されるのは気分がいい。
自分が一角の人間だと立証されている気がする。
「衛若蘭だ」
「……あの女、というのは、後宮主計所の判官様のことか?」
九龍の声には微かな怯えがあった。
若蘭はにやりとした。
「いや。月牙のことだよ」
名を呼ぶなり男の肩がびくりとするのが分かった。
「若蘭どのは――月牙どのの御身内か?」
「ああ。身内といえば身内だ。それより急いだほうがいい。本当に急を要する話だ」
木戸の左右にも門衛がいた。九龍を見るなり背筋を正す。後ろに連れている若蘭については一言もない。よく躾けられているもんだ、と若蘭は舌打ちしなくなった。これだけ部下を掌握しているなら、この色男はどうして月牙のあの馬鹿みたいな作戦を止めてやらなかったんだ?