第五話 空蝉の術 3
さて、中夏月の朔日である。
正午過ぎ、月牙は黒い愛馬に騎乗して、四人担ぎの輿の先導をして外砦門を出た。
輿の後ろに徒歩で続くのは、編み笠から垂れる白い羅で顔を隠した魯秀栄を頭にする三人の御針子と、リュザンベール人の三人のヴァイオリン弾き、二人のダンス教師だ。
総勢九人の小行列を、二十人の柘榴隊士が護っている。
「――随分な警戒だなあ!」
小行列が南大辻へと差し掛かったとき、沿道に群がる見物人の一人が揶揄うように呟いた。
大きめの編み笠を被っているために顔はよく見えないが、白いシャツに赤いジレ、青色のズボンのお仕着せは、この辻では一目で奇瑞商行の雇人だと分かる。
男の名は衛若蘭。
見ての通り、舶来雑貨の専門店たる奇瑞商行に雇われている事務員である。
単なる売り子ではなく格上の事務員である印は胸元の黒天鵞絨のリボンなのだが、若蘭は、今日はわざとそのリボンを外している。
彼なりに変装をしているつもりだ。
若蘭は昨日から「母が危篤で」という口実で休みをとっているのだ。
お仕着せを着たままなのは、このきわめて目立つお仕着せが、ある意味ではこの辻では一番目立たないからだ。誰か見ても「ああ、あの奇天烈なのは奇瑞商行の売り子だな」とスルーしてくれる。
――顔もしっかり隠しておかなけりゃな。あの女が俺を一目みたらすぐに気付くだろうからな。
――それでも、もしも気づかれちまった場合は……それはそれで悪くない。あの女はきっと泣くだろう。若蘭さま、どうしてここに? 私はあなたと逃げるのを拒んだ女ですのに――
若蘭は愉快な妄想に耽りつつ、大きな八字髭に隠された短めの鼻の下をこれでもかと長くした。ちなみにこの髭も付け髭である。彼は本気で変装している。
大辻には若蘭の他にもかなりの数の見物人が出ていた。
大家の奥方からも出ているのか、あちこちに輿や車も見える。
今日は洛中の新北宮――通称「法狼機宮」で、二度目の踊りの稽古会があるのだ。
先月には、会に連なる奥方たち――大半が官妓あがりの身分低い姨太太たち――は、新租界で着替え方を指南され、媽祖大祭みたいに大仰な行列を作って法狼機宮へと護送されていったらしい。
しかし、二度目はもう各々の邸で着替え、各々の邸の護衛を伴って宮へと向かうのだという。
――赤心党の連中は、できるなら先月の大行列を襲撃したかったんだろうな。
衆人の注目を集めるという意味では、それが一番だっただろう。
しかし、先月の大行列の警備はまさしく水も漏らさぬものだった。
今日の行列も同じく仰々しいが、黒馬に騎乗する「柘榴庭どの」の後ろに続く輿が空であることは、多少の観察眼を備えた者なら一目で見てとれるだろう。
――あの女は大真面目にこんな作戦を立てて、いっぱしの策士になったつもりでいるのだ。
そう思うなり憐れみと愛しさが湧き上がってきた。
あの女は所詮はお人形だ。
誰か巧みな人形遣いに操られているだけだ。
誰が――もちろん、誰かなど決まっている。
竜騎兵の改組者にして洛東巡邏隊の創設者。
尚書令たる左宰相公だ。
京で大人気の「謎解き判官さま」とやらを官妓の代わりに傍に侍らし、これも大衆人気の高い「柘榴庭どの」に護衛させることで、洛中の人気取りに励んでいる。
さすがに大した策士だと若蘭は感心する。いくら貴顕の家の御嫡子であれ、その程度の賢しさがなければ、さすがに若くして位人臣は極められないのだろう。
女たちはあの大官に巧いこと操られているだけだ。
――あの女は本当に馬鹿だよ、と若蘭は憐れんだ。
同じ操られるにしたって、綺麗な着物で着飾って宮の奥で踊っているならともかく、女だてらに馬になんぞ乗って巡邏隊ごっこに励まされている。
それだって全く巧くやれていない。
せっかくこれだけ厳重な警備を敷いたのだから、赤心党のことなんか気にせず、あの輿に判官様とやらを乗せておけばよかったのだ。それを、わざわざ変装させて密かに東大橋から入らせるなど! 躾の悪い部下どものせいで、その話はとうに漏れてしまっている。襲われるならそっちに決まっている。
黒馬に騎乗する女の姿は、人形としては最高に美しかった。
凛と伸びた痩躯を白い袖なしと浅葱色のくくり袴に包み、白鷺の羽矢を翼のように広げて、いまだ艶やかな黒髪を結い上げ、左右の耳の上に鮮やかな柘榴の生花を飾っている。
――なあ月牙、こっちを見ろよ。俺だよ。若蘭だよ。
若蘭はありったけの念を込めて騎馬の女を凝視したが、女のほうは一瞥もくれなかった。やはり気づいていないようだ。
――完璧だな俺の変装、と打たれ強い若蘭は自画自賛した。
気づかれないのはもともと計画の内である。
輿がやはり空だったと確かめられたとなれば、やるべきことは一つだ。
――行くぞ。新租界へ。