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第一話 ぼたんはどこに消えた? 二

「その、まさか頭領も、リュザンベール語が全く?」と、背後の楊春がびくびくと訊いてくる。

「いや、まあね。朝昼晩の挨拶とありがとうとごめんなさいくらいはいえるよ?」

 言い訳じみた答えを返すと若い平隊士は黙った。


 後ろから目だけで軽蔑されている気がする。


 ――ああ、私はすごく駄目なやつかもしれない。


 月末の筆仕事に追われて寝不足気味の月牙は唐突に落ち込んでしまった。

 だってそうではないか!

 京洛地方唯一のリュザンベール人居住区たる新租界の警備の総責任者という栄えある地位についてからもう半年になるのに、肝心のリュザンベール語は挨拶程度しか話せないだなんて。


 ――駄目だもう私。ボウフラ以下に無能だ。助けてアンリか玉夏(ぎょくか)。後ろからとつぜん湧いてきて。

 

 落ち込みきった月牙が今ここにはいない知り合いの通詞夫婦の名前を祈るように思い浮かべたとき、


「あ、あの」


 右手の小部屋の入口からおずおずとした声がかかった。


「あの、柘榴庭(ざくろてい)さま――」


 このお屋敷でされるとは思わなかった「柘榴庭さま」という呼び方に愕いて見れば、小部屋の入口に立っていたのは、くすんだ萌葱色の上衣と薄緑の裳に、白い細い腰帯を結んだ小柄な娘だった。青白く目ばかり大きい、怯えた子鹿のような印象の十八、九の娘だ。


 娘のまとう装束は月牙の目にはなじみ深かった。

 半年前までこの場所にあった後宮外宮典衣所の針女の官服である。

「そなたは、(さき)芭蕉庭(ばしょうてい)の?」

 旧来通りの雅称で訊ねるなり、娘は蒼白い頬をぱっと赤らめて頷いた。

「は、はい! お針女の魯秋栄(ろしゅうほう)と申します」


 新租界は、若い双樹下国王がリュザンベール人の后をただ一人の伴侶として迎えたために、かつての後宮が大幅な規模の縮小を余儀なくされた結果生まれた副産物みたいなリュザンベール人居住区である。

 この付近は、かつては後宮内宮を囲む「外宮」と呼ばれる外縁部だった。一帯が内宮の直接経営から切り離されたあと、四方を濠と堅牢な石壁に囲まれているという利点に目をつけた尚書省が、反リュザンベール国粋派の襲撃に遭いやすい「お雇いリュザンベール人」たちを集めて旧外宮地区に集住させた。

 そういういきさつで成立した街区だから、この一帯の「お屋敷(めぞん)」には、今もかなりの確率でかつての外宮女官が働いている。

半年までは外宮の「柘榴庭」の武芸妓官(ぶげいぎかん)たち――女官ながらも武具をとって後宮の警衛にあたってきた双樹下独特の官職だ――の頭領を務めていた月牙も、名称を変えながらも以前と似た務めを続けている旧・外宮女官の一人だ。


――ああ、時代がどれだけ変わっても、芭蕉庭にはやはり早緑のお針女が住んでいるのだなあ。


目に懐かしい萌葱と浅緑の裳衣姿の秋栄を、月牙はしみじみとした哀感を込めて眺めた。

月牙自身は気づかなかったが、秋栄のほうも、去年までと何ら変わらぬ月牙の姿を――白麻の筒袖に浅葱色のくくり袴を合わせ、緋の帯に黒鞘の刀を吊し、背には二十本の白鷺の羽矢をおさめた籐の箙と弓を負った「柘榴庭さま」の姿を、まばゆい入り日を仰いで涙ぐむような目つきで見上げているのだった。


「典衣所は、今は内宮西院芙蓉殿に移っているのだったよな? そなたは――官服からして、今も典衣所に所属してはいるのか?」

「はい。もったいなくも禄だけは内宮から賜りながら、今はこちらにご厄介になって、正后さまの御為に法狼機服の仕立ての修行を積んでおります。それで、おこがましながら、もしよろしければ、わたくし通詞をいたしましょうか?」


 はにかみ屋の娘がようやくに本題を切り出してくれた。

 月牙は天を仰いで何かに感謝したくなった。


 ――若者の順応力万歳!


「それは助かる。秋栄どのといったね。前の芭蕉庭のお針女どのなら、この柘榴庭にとっては身内みたいなものだ。是非ともお願いするよ」

 笑顔で応じるなり娘がまた顔を赤らめる。


 と、そのとき、

〈――秋栄〉

 頭上から不機嫌なうなり声が聞こえた。

〈その無礼千万な女隊長と仲良くなぁにを話しているの? わたくしに隠れて内緒話?〉

 見れば、マドモアゼルが相変わらず階段の上で憤怒もあらわに仁王立ちをしているのだった。

〈すみませんマドモアゼル!〉と、秋栄が流暢なリュザンベール語で答える。〈私が通訳をしますからと〉

〈通訳? 必要ありませんよ。その無礼者はもう結構。副領事官から駐在武官を呼んできなさい〉

 マドモアゼルの声音は氷みたいに冷ややかだった。

 背後で楊春がぷるぷるしている。

 月牙は混乱した。

 ――まだ挨拶しかしていないのに、私は何でここまで怒られているんだ? 言葉が通じないからか?

 いや、それはないと思い直す。扉をあけて挨拶をした時点で、相手はすでに激怒していた。

「――なあ秋栄どの、マダムは何をこんなに怒っているんだ?」

 背をかがめて耳元で囁くなり、秋栄のもともと蒼白い顔から一切の血の気が引いた。

 娘はかっと目を見開き、今にも悪霊退散! とか叫びそうな形相で、つま先だってこそこそと耳打ちしてきた。

「柘榴庭さま、師匠のことはどうかマドモアゼルとお呼びください。それでもう一度ご挨拶を」

「え、でもマドモアゼルっていうのは双樹下(こっち)で言うところの小姐(おじょうさん)でしょ? せいぜい秋栄どのくらいの年頃までなんじゃ――」

「お・呼・び・く・だ・さ・い!」

 おとなしそうな娘が意外な鋭さで命じ、階段状のマドモアゼルを振り仰いで口早に何か言う。

〈マドモアゼル、すみません! 女隊長は挨拶を間違えました。もう一度言い直します!〉

〈いいでしょう。言ってみなさい〉

「柘榴庭どの!」

 今です、と秋栄が目線で促す。


 月牙は半信半疑ながらも新しい呪文を唱え直した。


「ええと、ぼんそわーる、まどもあぜる。こまんたれぶ?」


 するとマドモアゼルは鷹揚に頷き、手だけで左手の部屋へと入るようにと促した。

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