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第四話 幕間にウズラの卵を 一

謎解きはありません



「――ふむ。これが名高い外宮の柘榴か。よもやかの柘榴庭を生きてこの目で眺める日が来ようとはのう」


 しみじみと独りで語りながら青衣の貴人が眺めているのは、通称としての「柘榴庭」たる月牙ではなく、文字通りの旧・柘榴庭――洛東巡邏隊の司令部(カルチエ)の南西の角に植わった青々とした柘榴の巨樹である。


 季節は中春月の半ば――

 葉の陰から射す木漏れ日が、梢を仰ぐ貴人の鮮やかな瑠璃色の袍に落ちて光の斑を描いている。


 貴人は庭に独りでいるのではなかった。

 月牙を頭とする洛東巡邏隊、通称「柘榴隊」の幹部がほぼ全員、だらだらと嫌な脂汗をかきながら横一列に並んでいる。

 校尉たる月牙を左端にして、第二隊正の宋麗明、第三隊正の周桂花、第四隊正の杜九龍と並んで、月牙と麗明と桂花の後ろには、それぞれの小隊の筆頭火長が従っている。九龍のところだけいないのは、彼の代わりに隊を率いて午後の巡邏に出ているためだ。

 欠けている幹部はもう一人いる。

 月牙がじかに率いている第一小隊の隊正見習いを務めている十五歳の元・武芸妓官の孫小蓮である。

 はしっこくて小回りの利くこの少女は、新租界のリュザンベール人たちからは、「司令部(カルチエ)のちっちゃな女士官候補生(ラ・カデ)」と呼ばれてよく飴なんかをもらっている。


 さて、そのちっちゃな女士官候補生(ラ・カデ)は、木戸のすぐ北側の厨で、この場では最高級の海南白茶の茶葉を、錫の匙でそろそろと掬っていた。

 これは茶好きの杜九龍が私費で購入している海都渡りの特上品だ。

 茶器は宋麗明御秘蔵の極上の嶺北白磁。

 盆は月牙の私物のなかで二番目くらいに高価な玉製のやつだ。

 通いの炊ぎ手の劉大姐が、笊に山盛りの瑞々しい香菜の根っこを毟りながら興味深そうに眺めている。

「なあ小姐(じょうさん)、今日は一体どういうお客様がおいでなんだい?」

 ちっちゃな女士官候補生が焜炉の上の鉄瓶を取ろうとして「(アチ)っ」と叫ぶに至って、劉大姐はついにこらえきれずに訊ねた。

「あんたが手ずからお茶を淹れてやるなんてさ。頭領さまはそういう雑用あんまりやらせないだろ? 御若いくせにわりとご身分にやかましいからねえ」

 小蓮はあまり慣れない手で急須に湯を注ぎつつ曖昧な笑みを浮かべた。

 あのお客人が何者かは――あんまり大きな声では言えない。

「ええとね、王宮から来たすっごく偉い方なんだよ。なんだか急に来ちゃってね」

「そうかい。大変だねえ。そんなに大事なお客様なら、ちょいと出てお茶請けに鶉の卵の煮しめでも買ってこようか?」

「あ、ううん。本当に偉い方だから。そういう露店の点心(おやつ)みたいなものは、お召し上がりにならないんじゃないかな?」

「随分気取っているんだねえ! 偉いといやウチの頭領さまだって相当偉いし、あの煮しめは紅梅殿の判官様だって大喜びでお上がりになったってのにさ!」

 大姐はみずらかの世界で最も高貴だったお客人を引き合いに出した。

 劉大姐のいう通り、洛東名物鶉の卵の煮しめはとても美味しい。

 生姜と砂糖を加えて生臭みを消した魚醤で飴色になるまで煮しめられた鶉のゆで卵はとかく後を引く。ひとつ食べたらまたひとつ、二つ、三つと数を重ねて、気づいたら丼一杯食べていたなんてことも珍しくはない。

 小蓮だってその美味しさは重々承知している。

 しかし、いま来てしまったお客様の偉さは次元が違うのだ。

 露店で多少の土埃を被っているだろう点心なんぞをお出しして、ご帰宅後に腹痛でも起こされたら、要人毒殺の嫌疑をかけられて柘榴隊ごと御史台に引っ張られかねない。

 そういうお偉さである。

 

 ――このお茶にだって、もしも糸屑なんか浮かんでいたら、無礼者! って一喝されてその場で御手打ちかもしれない……その場合、斬れって命じられるのはお茶の持ち主の九龍さんなのかもしれない……ああみえて情に脆い九龍さんは男泣きに泣いてできませんって縋って、権威に弱い頭領が泣く泣く私を斬ってしまうのかもしれない……


 想像力豊かな十五歳は果てしなく悪い想像を重ねて慄きながら茶を淹れた。


「小姐、そんなに緊張するもんじゃないよ」と、劉大姐が励ましてくれる。「田舎の駅長さまだって輿でお出ましなんだ。そんなにお偉いお方がお供二人でお馬に乗ってやってくるもんかいね」

「うん、まあね。あんなにお偉いお方がお供二人でお馬に乗ってやってきちゃったところが、そもそも大問題だっていうかね――」

 小蓮は蒼褪めた顔で笑い、茶碗にそっと蓋をしながら頼んだ。

「ねえ大姐(おばさま)、今日の御客のことは他所では話さないでね? 何の御用事でいらしたのか知らないけど、いわゆるあれだから、他言をハバカルってやつだと思うから」

「もちろんさ小姐」と、たくましい腕をむき出しにして木鉢で麦粉を練りながら劉大姐は請け合った。

 今日は珍しくも――酒以外の食に拘りの乏しい頭領さまじきじきのご要望で――旬の香菜をたっぷりのせた北塞風の牛筋麦麺なるよく分からん麺類を拵えなければならないのだ。いつまでも謎のお客人のことなど考えてはいられない。


                   ◆


「――頭領、お茶淹れてきました」

 小蓮が背後から囁く。

「ああ、ありがとう」

 月牙も小声で応じると、玉製の盆を受け取り、自ら貴人の傍へと歩み寄った。

「あの、宰相公―-」

「なんだ?」

「……その、粗茶でございますが」

「うむ」

 貴人は――双樹下の官僚ピラミッドの頂点に君臨されたもう正一位尚書令――通称は「左宰相」たる槙炎卿(しんえんけい)公は、大きな手で無造作に椀をつかんで飲んだ。

 そのさまは実に悠然たるものだ。

 庭に居並ぶ七名の視線を厨の軒下に群がるスズメほどにも気にしていない。


「白茶か。海都産かの?」


 あ、はいわたくしが買いました、と言いたげに杜九龍が小さく右手をあげるが、宰相公は一瞥もくれない。哀しげに肩を落とした九龍の背を、右隣に並んだ麗明が優しく叩いてやっている。

「なかなか上質だ」

 独り頷き、木漏れ日を浴びつつ柘榴の梢を仰いで、「ふむ、ヒタキが鳴いておる」などと呟いている。


 ――この方何しに来たんだろう……?


 立ったまま悠々と茶をすする槙炎卿の姿を、月牙は所在なく眺めた。

 位人身を極めた名家の当主のわりに左宰相公は若い。

 貴人の年頃は分かりにくいが、おそらくは三十半ばほどだろう。

 瑠璃の官服に包まれた長身は体格がよく、膚が白く眉が濃く、炯々とよく光る大きな黒い目をしている。節度使時代に勅使として白馬に騎乗して金銅の甲冑をまとった姿は古代の将を描いた()のようだった――と、今もって言い伝えられているというのがよく分かる、堂々たる偉丈夫である。


「ところで柘榴庭よ――」

 静止画のような偉丈夫がようやく口をきいてくれた。

 月牙はほっとして訊ねた。

「なんでございましょう?」

「ちと紅梅殿の判官を呼んできてくれ」

 ちとそこの茶碗を取ってくれ――みたいな気安さで宰相公は命じた。

 

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