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第三話 すれ違いの不思議 一

「え、え、あ、柘榴庭さま?」

 と、真ん中の紅色のマダムが口元を押さえる。

 年頃は二十二、三か。

 くっきりと大きな二重瞼とつんと尖った鼻。華やかで愛らしく人目に立つ、大輪の赤牡丹みたいな美貌だ。

「ええ兵部尚書さまのマダム。いかにも柘榴庭でございます」

「じゃ、この年増は――」

 と、緑のマダム。うりざね顔で首の長い上品な造作だが、かったるそうな表情がこの世のあらゆるものを小ばかにしているように見える。

「ご本人の仰せの通り、後宮北院主計所、いわゆる紅梅殿の判官どのでございますね」

「え、紅梅殿の?」

「判官様って、あの……?」

日傘を杖のように使って左右から動きを戒めていた侍女たちが顔を見合わせ、助けを求めるように紅色のマダムを見やる。

「あ、あら、もういいわ。すぐに放してあげてね?」

 紅色のマダムが実に可愛らしく小首をかしげてみせる。

「助かったよ柘榴庭! すばらしいところに現れてくれたね」

「お褒めはどうか隊士たちに。いつも昼まで北院正殿にお詰のはずの主計判官様がなぜまたこんなところにおいでで?」

 マダムたちの視線を意識してことさらに丁重な口調で訊ねる。

「そこは話せば長いんだけどね――」

 雪衣は太いため息をつき、

「ちょっとどいて。坐るから」

 と、無造作に侍女たちをどかせると、濡れた石の腰掛にためらいなく坐り、肩を落としてまたも長いため息をついた。


「本当にどうしたのさ。ずいぶん疲れているみたいだけど」

 ついつい砕けた口調で話しかけるなり、雪衣はくしゃっと顔を歪め、たまりにたまった鬱憤を晴らすようにまくしたてた。

「どうしたもこうしたもないよ! 知っているとは思うけどさ、(さき)の紫薇殿さまがいきなり東院にいらっしゃってね、そのまま東院でお召し替えなさるって言いだしたんだ! メゾン・ド・キキにおいてある私物のお召し物にね!」

「それは……」

 月牙は絶句した。

「大変だね」

「大変なんだよ」

「何が大変なのさ」と、果敢なる紅色のマダムが遠慮のかけらもなく口を挟んでくる。

「貴妃さまだってお好きなとこでお召し替えするくらいいいだろ? 籠の鳥みたいでお気の毒じゃないか」

「そうだよ、そんな意地悪しなくたってさ」と、緑のマダム。

 雪衣はきっと二名を睨んだ。

「意地悪じゃなくて決まりを守ってもらいたいだけだよ。どこでお着換えしたっていいなら、できれば決められた場所でなさって欲しいってこと」

「なんでさ」

「お召し物が私物だからだよ。釦の真珠ひとつで厨の婢の半年分の扶持になりそうなお衣装、万が一にも後宮内で紛失があったら弁済が大変だもの。だから、あちらの近侍がたに伺って大急ぎで目録を作って、主計官も立ち合って内宮妓官たちが運び込むことにしたんだけどね……」

「まだ何かあるの?」

「あるんだよ、これが。あの我儘貴妃さま、あ、違った、わがまま元・貴妃様、最後の最後になって髪飾りの色が気に入らないって言いだしたんだ!」

「それで雪がじかに取りに?」

「そういうこと。それが一番早そうだったからね」

と、雪衣が膝に乗せた黒天鵞絨張りの小箱を示す。「で、大急ぎでメゾンを出たところでこの雨に降られて手近の四阿に駆け込んだんだ。そしたらこちらのお若いマダムがたに盗人の疑いをかけられたってわけ!」

 雪衣が三名をじろっと睨む。

「す、すみませんでしたぁ」

 薄紫のマダムがびくびくと謝る。

 緑のマダムはふんと鼻を鳴らして顔を逸らしてしまう。

 紅色のマダムも気まずそうにそっぽを向いたが、そのうちに、顔は逸らしたまま小声で呟いた。

「だって見えなかったんだもん。主計判官様になんかさ」

「お気になさらずお若いマダムがた。疑いが晴れて何よりです」

 雪衣が冷ややかに応じた。

 ものすごく怒っているようだ。


 会話が終わってしまうと、四阿のなかに重い沈黙が落ちた。

 屋根を叩く雨の音ばかりが大きく聞こえる。

 むっつりと黙り込んだままの雪衣のつむじを、緑のマダムが眉間に深いしわを寄せて睨み続けている。

 はっきりいって怖い。

 雪衣も含めて怖い。

「そ、それじゃ皆さま、何も問題がなければ、私はそろそろ外砦門のほうに――」

 月牙が申し出たとき、

「ねえねえ柘榴庭さま、折角だからまだいてよ! 雨が止むまででいいからさあ」

 紅色のマダムが遠慮容赦なく腕をつかんできた。

「あ、いや、私は務めの最中でして」 

 助けを求めて雪衣を見ると、主計判官様はつんと顎をそびやかしていった。

「残れ。柘榴庭」

 

 ――一人逃がしてなるものか。


 言外のそんな言葉が聞こえる。


「承りました」

 身に沁みついた妓官根性で恭しく応えてしまってから気づく。


 ――あれ、私たちって今は尚書省直属なんだから、後宮北院の命令に従う必要ないんじゃ……?


「やった、残ってくれるんだね!」

 紅色のマダムがあけっぴろげに嬉しそうな笑顔を浮かべる。

 そんな表情をするとずいぶんあどけなく見える。

 丹念な化粧と世慣れた物言いから二十二、三と思ったが、もしかしたらまだ二十歳そこそこなのかもしれない。


 ――桂花とさして違わないのか。他の二人も同じくらいか?


――まだ子供みたいな()たちが、慣れない場所に連れてこられて、こんな慣れない格好で、はしゃいでなけりゃ随分緊張するんだろうな。


 そう思うともう駄目だった。

「では雨の降りやむまで、憚りながら御同席にあずかりましょう」

 告げるなり歓声があがる。


「じゃあ自己紹介だね。あたしは蝉玉(せんぎょく)。兵部尚書さまの奥方にいるんだ」と、紅色のマダム。

「私は芳春(ほうしゅん)老爺(だんな)は工部次官さまだよ」と、緑のマダムが名乗り、ひょいと顎をしゃくって薄紫のマダムを示す。「で、あれが蝶仙(ちょうせん)。老爺は中書省付塩政さま? だってさ」

「御名乗りありがとうございます。先ほど申し上げたとおり、わたくしは後宮北院主計所判官を拝命する趙雪衣と申します。で、これが柘榴庭」

「……尚書省付洛東巡邏隊の校尉を拝命する蕎月牙と申します」

「え、柘榴庭さまじゃないの?」と、蝉玉。

「いえ、柘榴庭であってます」

 月牙は新たな正式名称を普及させんとする努力を放棄した。

「ふうん。女官さまがたの御名乗りもいろいろ難しいんだねえ。―-ね、みんな、折角あの判官さまと柘榴庭さまがご一緒にいるんだよ? 何か謎解きはないのかい? みんなして大っきいお邸に入ったんだからさ、奥で夜毎に幽霊が出るとか、古株の姨太太(おへやさま)が毒殺されたとかさあ!」

蝉玉(せんぎょく)姐さん、そんな御大層な謎が右から左にそうそうあるはずないだろ? 芝居じゃないんだからさ」と、芳春が肩を竦める。

「だってつまらないじゃないか! せっかくなのにさ」

 蝉玉が朱唇を尖らせ、それまでじっと黙っていた薄紫の蝶仙を見やった。

「あんたは何かないの?」

「え、あ、あたしは――」

 蝶仙が口ごもる。淡い色合いの衣装がよく似合う楚々とした風情の佳人だ。卵の殻のように脆そうな色白の丸い頬と華奢な首筋。名にちなんでいるのか、薄い耳朶に蝶を象った銀と真珠の耳飾りをつけている。


 ――この()が「蝶仙さま」か。なるほど可愛らしいな。


「マダム、ご無理をなさらず」と、雪衣が微苦笑する。

 蝶仙はぱっと頬を赤らめてから、小首をかしげておずおずと口を切った。

「あの、判官様は――」

「ん?」

 雪衣が優しく促す。

 蝶仙は一度うつむくなり、意を決したように顔をあげて訊ねた。

洛北名物鶏(とり)米麺(ビーフン)って食べたことあります?」

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