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第二話 奥方が多すぎる 七

 幸い、雨はそう長くは続かないようだった。

 庇を叩く雨音が穏やかになり始めたとき、右手の奥に見える外大池の北側のあたりから一人の隊士が駆けだしてくるのが見えた。

 雨の中まっすぐに南大路を駆けて外砦門へと来るようだ。


「あれは第一小隊(うち)のですかね?」

「ああ」月牙は目を眇めて見定めながら応えた。「第三火の伍長だ。石英(せきえい)、どうした、何があった?」

 名を呼ばれた伍長は一瞬目を見開いてから、浅黒い頬をぱっと紅潮させて答えた。

「頭領、すぐにいらしてください! 御池のほとりの四阿(あずまや)で、三人のマダムがお一人のマダムを取り囲み、お前は盗人(ぬすっと)だと責め立てているのです!」


「盗人? どういうことだ」

「わたくしどもにもよく」と、石英は面目なさそうに答えた。「わたくしの護衛しておりましたのはええと、中書省付塩政さまの奥方だったのですが、頭領が雨だと御叫びになってすぐ、一番手近の四阿にお連れしたのです」

「なるほど。いい判断だね。それで?」

「すると、そこにはもうお三方、兵部尚書さまの奥方と工部次官さまの奥方、それにもうお一方、どなたか分からないマダムがいらっしゃったのです」

「分からないって、そのマダム付きの護衛は一緒にいなかったの?」

 訊ねるなり石英は表情を曇らせた。

「おりませんでした。そのうえ侍女のお一人も連れず、お召し替えもまだで、何かこう黒い小箱をしっかと抱いていらしたのです」

 月牙と子明は顔を見合わせた。

「護衛も侍女もなしで、リュザンベール服さえ来ていないのに、どうしてお召し替えのマダムの一人だと思ったんだ?」

「それはその――」と、石英が口ごもった。「いかにもそれっぽいと申しますか、こう、とてもあか抜けてお綺麗なのですが足取りなどきびきびされて、物言いなども大層世慣れた感じで、何と言いますか――」

「要するにあれだ、人前に出ての踊りのためだけに奥方に入った娼妓あがりの夷太太(おめかけ)って、そういう感じなんだね!」と、子明がせっかくの婉曲表現を情け容赦なく翻訳する。

 月牙は苦笑した。

「子明、言葉には気をつけろ。今日いらしているマダムは全員しかるべき身分なんだ。で、その世慣れた感じのマダムが、他のお三方から盗人だと咎められているのか?」

「そうなのです」と、石英がほっとしたように応じる。「他のお三方も見るからにご同業のお方ですから、初めは親しげにお声をかけられ、姐さん名前は何だいとか、どこの妓楼(みせ)にいたのさとか、そういったことを訊ねていらしたのですが、その方は曖昧に笑うばかりではかばかしくはお答えにならず、業を煮やしたお三方がその箱の中身を見せてみろと言うと、これは絶対に見せられないと仰せで」

「それは――」

 子明が不安そうに言う。

「あからさまに怪しいですね?」

「ああ」

 月牙は内心の戦きを押し隠して応じた。

「他の護衛たちはみな残っているんだね?」

「はい頭領。わたくし以外はみな。ただ、なにしろ肩が触れ合ってしまいそうに狭い四阿の中ですから、マダムが四人と侍女どのが三人もおいでのところに、まさかわれわれは踏み込めず」

「そりゃそうだ。当たり前だよ」と、子明が目を尖らせる。「濡れた美女たちのひしめき合う四阿に男が踏み込むなんてもってのほかだ。頭領、ちょっと行って柘榴隊(うち)小姐(おじょうさん)たちのどっちかを呼んできますよ」

「駄目だ。桂花と小蓮はメゾン・ド・キキ内の護衛から動かせない。とりあえず私が行く。二人とも、戻るまで門を頼むよ」

「はい頭領」

「任せてください」



 雨の中を走って外大池の北側へ向かうと、なるほど、池のほとりに立つ四阿へと上る石段の下で、五人の隊士が濡れながら肩を寄せ合っていた。

「おいお前たち、石英から話は聞いたよ。今どうなっているんだ?」

 ひそめた声で訊ねるなり、一人がおずおずと四阿を指さす。

「どうも尋問中のようです」

「尋問?」

 四阿の周りは石楠花と茉莉花の植え込みになっているから、下からでは縁の反り返った赤い瓦屋根しか見えない。

 耳を澄ますと雨音に混じって女の声が聞こえた。


「――だからさあ、あんた何者かって聞いているんだよ? 気取り返って澄ましちゃいるが、どうみたってあたしらのお仲間だろ? 本物の尊夫人が裳裾をからげて石段を駆け上がれるもんかい」

 どすが効いてはいるものの、声そのものは非常に愛らしい。

 ちょっと鼻にかかって甘い舌ったらずな声だ。

「答えなって大姐(おばさん)蝉玉(せんぎょく)姐さんが聞いているんだからさ」と、これはどことなく気だるげにかすれた色っぽい女の声。

「ね、二人とも、この姐さんにだって何か事情があるんだろうしさ、そんなに責めなくたって」

 こちらはだいぶおずおずとした若そうな娘の声だ。

 途端、二つの声が同時に怒鳴る。

「「あんたは黙ってな蝶仙(ちょうせん)!」」

「でも…」

「でもじゃない! 勿体なくも後宮のお針女さまの御屋敷に呼ばれたってのに、手癖悪くも盗みを働くなんてさ! お上に知れたらあたしら娼妓あがり全員の恥になるじゃないか!」



「……――とまあ、大体こんな状況のようです」と、平隊士の一人が言い添える。「疑われているマダムは、侍女三人に取り押さえられているようです。日傘を警棒のように使っています」

「幸い仕込み杖ではないようです」

「……なるほど」 

 月牙は辛うじてそれだけ応えた。

 正直すごく怖いが、警備の総責任者としては踏み込まないわけにもいかない。

「少なくともお一人は中立なんだね?」

「あ、蝶仙さまですね」と、平隊士の一人がうっとりと言う。「中書省付塩政さまの奥方ですよ。とてもお可愛らしい方です」

「他のお二人が兵部尚書さまのところと工部次官さまのところね。分かった。とりあえず様子を見てくる」

「あの、我々もやはりお供を?」

「いや、下で待っていていいよ」

「はい頭領」

 五人はとても嬉しそうに答えた。



 隊士たちを下に残し、足音をひそめて石段を上る。四阿を囲む石楠花が疎らに花をつけていた。柔らかそうな薄紅色の花びらが雨に叩かれて震えている。

 四阿は六本柱で、下半分が腰の高さほどの朱色の格子板に覆われている。

 月牙は手近の灌木の陰に隠れて内部をうかがった。


 ――うわあ……


 背中しか見えない。


 こちらに背を向けて並んでいる三人はみなリュザンベール服だった。真ん中が紅色で右側が薄紫、左は明るい緑だ。

 きゅっと絞った腰の細さはまるでミツバチのよう。

 釣り鐘のように膨らむ裳裾と袖がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。


「ほら大姐、何でもないなら見せてみなよ? それとも見せられないのかい?」

 第一の可愛い声が可愛くない脅しをかける。


「いや、ですからね、さっきから何度も申し上げていますけど、これは大切な預かり物でして。マドモアゼル・キキから預かって、取り急ぎ前の紫薇殿さまにお届けするところなんですよ」


 たじたじと答える第四の声を聞くなり、月牙は耳を疑った。


 --え、今の声って……


 まさか。

 いや、まさか。


 疑わしく耳をそばだてていると、


「ふざけるんじゃないよこの年増が! 娼妓あがりが前の貴妃さまにお届けものだって? あたしの老爺(だんな)は兵部尚書さまだよ! あんたどこの何様のつもりさ!」


「ああん、どこの何様?」と、第四の声が低く唸った。

 必死にこらえていた怒りが今まさに噴出しているような声だ。


「知らなけりゃ教えてやるけどね、後宮北院主計所の判官様だよ!」


 ――やっぱり。


 月牙は脱力した。


「――なぁにをしておいでで主計判官様?」


「あ、月」


 濡れた藪の影から進み出るなり、三人のマダムたちが一斉に振り返った。

 ようやく見えた第四の声の主はやはり雪衣だった。

 恐ろしいことにいつも通り、白と薄紅色の官服姿だ。


 月牙は暗澹たる気持ちになった。


 ――柘榴隊(うち)の連中、伍長も含めて誰一人、紅梅殿の官服が分からかなったのか……



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