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第二話 奥方が多すぎる 六

「おい、何をぐずぐずしておる柘榴庭! 数にもならぬ地下の北夷女に、この紫薇殿がじきじきに命じておるのだぞ? 早いところ取り次がんか!」

 貴女が帳の内から甲高い声で怒鳴る。

「は、は、はいただいま!」

 十年の後宮女官生活で身についてしまった妓官根性をもって、月牙は思わずそう返事をしてしまった。

「子明、私はちょっと内宮へ行ってくる! すぐに戻るからしばらく門を頼むよ!」

「え、えええ頭領、ちょっと待ってくださいって! 僕一人じゃさすがにとても――」

「しぃ――っ、静かにして! 貴妃さまの御前だよ!」

 正しくは元・貴妃さまだが、今の月牙にはそれどころではなかった。

 貴妃さまからのじきじきのお声がかり!

 これが走らずにいられようか!



 南大路を疾駆して内南門に至るなり、朱塗りの扉の前に並んだ顔見知りの内宮妓官に向けて叫ぶ。

「師姉がた、すぐさま東院にお取次ぎを! 外砦門に前の紫薇殿さまがお見えです!」

「えええええ紫薇殿さまあ!?」

「ご本人? ご本人がいきなり? 何の先ぶれもなしに!?」

 内宮妓官たちも昼寝中に尻尾を踏まれた豹みたいに愕き、すぐさま内宮の奥へ走って各所へ報告に向かった。



 待つほどもなく内宮妓官の督である宋金蝉(そうこんぜん)が、次官の飛燕を伴って自ら駆けつけてきた。

「げ、げ、月牙、前の紫薇殿さまがお見えというのはまことか!?」

 金蝉は月牙と同じくカジャール系だと一目で分かる長身痩躯の老女だ。

 おそらくは七十を超えているだろう高齢ながら、皴深いその貌は今もって昔日の端麗さをとどめている。

 端麗な老女は老女らしくゼッゼと息を切らしながら月牙の肩をつかんで容赦なく揺さぶってきた。

「いらせられるのか前の貴妃さまが、今まさに外砦門のお外に!?」

「督、督、落ち着かれよ。柘榴庭が言葉を失っている」と、次官の飛燕が宥める。「で、月牙よ、本当なのか?」

「はい飛燕さま」と、月牙はすっかり安心して答えた。報告できる上官がいるというのはいいものだ。「今まさに外砦門においでで」

「あの方は――確か、ご同族の礼部員外次官さまに再嫁なされたのだったな?」と、まだ少し息を乱しながら金蝉が訊ねる。

「ええ。今日もそちらの奥方としてお見えなのですが、お召し替えの前に、東院にお住まいの石楠花殿様―-いえ、前の石楠花殿様にぜひとも御目通りをと」

「――なぜそういう訪問を事前に報せてくれないのじゃ、あの我儘貴妃さまは! せめて、

せめて一日前に……!」と、金蝉が昔日の苦労をしのばせる声で叫ぶ。

「督、落ち着かれよ。気付け薬はお持ちか――ああ月牙、お前はとりあえず御輿をこの内南門の前までお連れしてこい。私はすぐに東院へ報せにいく。門衛はそのまま残れ。秀鳳(しゅうほう)、お前は内の御輿の支度を頼むよ」

「はい次官!」

 有能な次官の飛燕の指示に従い、熟練の内宮妓官たちがてきぱきと出迎えの支度にかかる。

 月牙も胸をなでおろすと、大急ぎで外砦門へ戻り、自ら御輿を先導してまた内南門へと向かった。


 

 前の紫薇殿の貴妃を乗せ直した内の御輿が、内宮妓官たちに担われて東院の表門たる桃果門へと進んでいくのを見届けてから、月牙はようやく一息ついて、改めて外砦門へと戻った。

「どうだ子明。マダムがたは何人いらせられた?」

「今のところ十一人ですね」

「あと三人か。それぞれの随員の名前も名簿に記してあるね?」

「もちろんですとも。筆仕事はお任せください。それにしても――」と、子明がちらっと門の内を省みてうっとりとしたため息をつく。

「なんだか華やかですねえ! あっちでもこっちでも画みたいにお綺麗なマダムや可愛い小間使いたちが日よけの傘を広げていて! 新領事が就任したときの海都の租界の大園遊会だってこんなに華やかじゃありませんでしたよ」

 海都出身の子明にとっては最大級の誉め言葉である。

 実際、今の新租界内は目がちかちかするほど華やかだった。

 メゾン・ド・キキで着替えを終えた色とりどりのドレス姿のマダムたちが、こちらはみな双樹下風の裳衣で装って髪には生花をかざした侍女にドレスと揃いのフリルつきの日傘を持たせ、南大路をうろうろしながらかつての後宮見物に興じている。さらにその彼女らを見物する太太(おくさん)たちや小姐(おじょうさん)たち、あちこちの青楼からやってきた官妓たちまでいる。

「あれ、副領事まで見物に出てきている」

 子明が面白そうに言う。

 月牙は心浮きたつ思いだった。


 そのとき、右手からふいに激しい羽音が立ち、かなりの数の鳥の群れが頭上を西へと飛び去っていった。

 月牙ははっと視線を向けた。

 すると、副領事館の屋根の向こうに黒っぽい陰りがみえた。



 雨雲だ。



 雨雲がかなりの速度でこちらへ近づいてくる。

 月牙は背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。

 この時期の驟雨は滅多にないから想像もしていなかったが、雨はまずい。ものすごくまずい。双樹下風の衣装ならいくらでも着替えが見繕えるだろうが、リュザンベール服はすべてそれぞれのマダムに合わせて仕立てたばかり、各々にまだ一着ずつしかないのだ。


 つまり、濡れると終わりだ。


 ――まずい。


「――子明」

「?」

「雨だ」

「え?」

「じき雨が降る。マダムたちを全員屋内へ。お衣装が濡れてしまう」

 告げるなり、月牙は自ら門の露台へ駆けあがり、銅鑼を打ち鳴らしながら怒鳴った。

「雨です! 雨です! 雨です――! マダムがた、どうか手近の建物へお入りください――!」

 きゃああ、と随所で悲鳴があがり、着替えを済ませたマダムたちがメゾン・ド・キキへと駆け戻っていく。

〈みなさまどうぞこちらへも!〉と、副領事が門前で促す。

「護衛は全員マダムのおそばを離れないように!」

 月牙がそう命じたとき、雨の初めの一粒が外砦門の庇を叩いた。


 春だというのに、まるで盛夏の驟雨(スコール)のように激しい不意打ちの豪雨だった。

「頭領、よく気が付かれましたねえ」と、子明が呆れ交じりに感嘆する。「そういうところは火長と、あ、間違えた、第四隊正どのとそっくりです」

 子明はもともと第四隊正の杜九龍の部下だったのだ。

 月牙は内心の忸怩たる思いを辛うじて押し隠した。


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