第二話 奥方が多すぎる 五
月牙が絶句している間に、先導の騎馬武者が自ら蹄を止めて下馬した。
「前の柘榴庭どのとお見受けする」
「あ、ああ。いかにも」
月牙はうろたえながらも機械的に定めた通りの台詞を口にした。
「おはようございますマダム。何かご身分の証となる書き付けをお持ちですか?」
「うむ。ここに」
帳の中から鷹揚な声が返り、赤い袖からのぞくぽっちゃりとした白い手が紙片を差し出してくる。
柔らかな手触りの三つ折りの紙を開くと、意外な官印と署名が記されていた。
「え、尚書省礼部員外次官さまの?」
身分が低い――とは言えないが、左右宰相を頂点とする双樹下王宮の官僚ピラミッドのなかでは上から四番目くらいの微妙な高さである。
――しかも結構な閑職のような気がする……
員外次官ということは、正式の次官は他にいるということだ。
戸部や兵部のような激職ならばいざしらず、どちらかというと閑職よりの礼部のさらに員外。何というか、おじいさんあたりに宰相のいた名家の無能なボンボンが、二位階下まで推挙して貰える嫡男特権にのっとって十代で貰う名誉職とか、そういう感じのする閑職である。
それがそのまま齢を重ねているとしたら――
――控えめにいって超無能?
「そうじゃ。何か不具合が?」
帳の中から不機嫌な声が応える。
月牙は慌てて否んだ。
「い、いえ、とんでもありません! ではマダム、こちらは御収めに――」
書付を返そうとした手首をぽちゃっと湿った生暖かい手にいきなり掴まれて、月牙はぎゃっと叫びそうになった。
--な、な、何?
相手は手首をつかんだまま、もう一方の手で赤い帳を分けた。
途端、むせかえるほど濃厚な白檀の臭いが漂う。
「久しいのう柘榴庭よ」
なにやらしんねりした声音で言いながら月牙を見上げてくるのは、ふくよかな丸顔をしたまだ若そうな貴女だった。
月牙が咄嗟に反応を返せずいると、不服そうに細すぎる眉をしかめる。
「なんじゃ、この顔を見忘れたのか?」
月牙は心底困った。
見忘れたもなにも、目の前のふくふくした丸顔に見覚えなどみじんもない。
――だれだ? 一体だれなんだ?
必死で相手の特徴を見定めるうちに、耳に被さる双つの環のような形に結った髪の結い目に、瑞々しい紫薇の生花が飾られていることに気付いた。
月牙ははっとした。
石楠花。
茉莉花。
芙蓉。
紫薇。
かつて後宮西院四殿に冠されていた四花は、正式の典範に定められた規定ではなかったものの、長年の不文律として、その殿に住まう貴妃だけが髪にかざしたものだった。
すると、お髪に紫薇を飾ったこの見知らぬ貴女は――
「し、紫薇殿さま……?」
震える声で呼ばわると、貴女は頬のえくぼを深めて満足そうに頷き、はっと思い出したように袖口で目元を覆って芝居がかった調子で肩を震わせてみせた。
「正しくは前の紫薇殿、じゃ。この身は主上に棄てられた憐れな秋の扇―-ひとたびは天上の四花となりながら、今は主上のたってにとの御言葉に従い、数ならぬ卑官に降嫁して生き恥を晒す身じゃ」
「で、では、礼部員外次官様に再嫁なされたので?」
恐る恐る訊ねるなり大仰にびくりとする。
「言うてくれるな柘榴庭よ。この身の果てしない恥辱を――」
丸い肩をさらに丸めてひとしきり背中を震わせてから、貴女は――前の紫薇殿の貴妃は、けろっと明るい顔をして月牙を見上げてきた。
「しかし柘榴庭、そなたをこうも近くで見られようとは、それだけでも来た甲斐があったというものじゃ。相変わらずの水もしたたる妓官ぶりじゃなあ!」
なんじゃい妓官ぶりとは、と月牙は内心でだけ突っ込んだ。
「かたじけないお言葉でございます。念のため伺いたいのですが、前の紫薇殿さまは、こちらでお召し替えの上、新北宮の踊りの稽古にご参加なさいますので?」
「そうじゃ。主上のたっての御言葉と聞いたゆえの。堪え難きを耐え、忍び難きをしのんでもこの身を捧げようと思い立っての。棄てられた身とはいえ、私は今もひとえに主上を思うておるのじゃーー」
貴女が丸々した頬を薄紅色に染め、むやみに瞬きをしながら月牙を見上げてくる。
何か言わなければならないようだ。
月牙は必死で言葉を捜した。
「あ――礼部員外次官さまがよくぞお許しになりましたね?」
答えるなり貴女はフンと鼻を鳴らした。
「あれは私の言うことには何一つ逆らわん。服の仕立てには芭蕉庭の針女を邸に呼んでいたが、せっかくだから様変わりした外宮の見物でもしようかと思ってな。小耳に挟んだが、玉楊がまぁだ未練がましく東院に住まっておるのじゃろ? 当代一の才色兼備と持てはやされたあの玉楊も、今は同じく秋の扇の身、ま、私には卑官とはいえ夫があるがの!」と、ふくよかな貴女は心底嬉しそうに喉を逸らして笑った。
「あの憐れな玉楊も旧知の私と話をすれば少しは気も紛れるであろ。柘榴庭、すぐに取り次いでくれ」
雲居の貴女は雲居の貴女らしくいとも無邪気に言い放った。
月牙は恐る恐る訊ねた。
「あの、前の紫薇殿さまーー」
「なんじゃ?」
「その、玉楊さまとはどちらの内侍で?」
訊ねるなり元・貴妃は救い難い馬鹿者を見たように深いため息をついた。
「柘榴庭、そなたまことに見目のみじゃのう。玉楊は前の石楠花殿じゃ。下賤の者はこれだからいかん。全く物を知らぬ」
――知らないよ前の貴妃さまのお名前なんて! こっちは毎日門衛で忙しかったんだよ!
月牙は心の中でだけ怒鳴り返した。
下々のあずかり知らぬところで、元の貴妃さまはそれなりに愉しく新たな人生を送っているようだった。