第二話 奥方が多すぎる 四
そうして朝の集会を終え、隊の全員がそれぞれの配置につくとすぐ、早速第一の奥方様がやってきた。四方に淡い翠の羅の帳を被せた四人担ぎの輿だ。マスケットで武装した騎馬の護衛が同行している。
「そこなもの、下馬せよ!」
今は扉を開け放しにしているかつての後宮の表門の前で声高に呼ばわると、護衛がびくりと背筋を伸ばし、すぐさま馬を降りた。
一目で分かる「柘榴庭さま」の威力だ。
四人担ぎの輿も一度低められる。
月牙は腰を曲げながら挨拶をした。
「おはようございますマダム。何かご身分の証となる書き付けをお持ちですか?」
「こ、こ、こちらでござりますぅ」
垂れ幕のなかからおずおずした声が答え、白い手がにゅっと伸ばされて、三つ折りにされた紙片を差し出してくる。
手触りのよい上等の紙を開けば、「尚書省兵部」の朱印に添えて、兵部卿の姓名が流麗な筆跡で書かれていた。
「結構でございます。前の芭蕉庭をお訪ねですね?」
「はい」
「では、ここから我々の護衛をおつけいたします」
「柘榴庭さま、マスケットはこのまま持っていても?」と、お供の護衛が眩しそうに目を細めながら訊ねてくる。
「こちらでお預かりいたします。馬は、司令部の北に兵舎がありますから、そちらの空き地に繋いで待機なさってください。これが割り符です。出るときまでなくさず持っていてください」
「承った」
護衛が恭しく頭を低め、馬を引いて門を入っていく。
その後に輿が続いた。輿の後にやってきたのは副領事館へ向かう通いの従僕だった。これはもちろん副領事のムッシュー・ベルトランの署名入りの身分証を携えている。次に来たのは見物客らしい洛中の商家の太太で、婢を一人つれ、左京兆府衛士所の官印入りの身分証を持っていた。その次の一行は、司令部で臨時に雇った顔なじみの炊ぎ女たちで、こちらは月牙が先日に与えた署名を月牙自身が検分するという小さな不正を犯してしまった。
今日の新租界は昼まで厳重警戒態勢である。宿駅の通行手形かしかるべき官印の押された身分証を持たない者は誰一人入れない。
――やってみやがれ赤心党。こちとら三〇〇年間外砦門を守ってきたんだからな。
地道な門衛を続けながら月牙は闘志を燃やした。
勝ち取るべきは何事もない一日。
ただそれにつきる。
ところで、新北宮でのダンス講習に参加するのは踊り手だけではない。
新租界からは、「分譲住宅地」と呼ばれている旧・大膳所の広大な敷地内に立ち並ぶ賃貸の小家屋に住まうヴァイオリン弾きが三人とダンス教師が二人、メゾン・ド・キキからはマドモアゼルの一番弟子らしい魯秋栄を筆頭にお針子が三人同行する予定だ。
奥方たち一四人と合わせて二二人!
これはもう小行列である。
個別に護衛をするのも煩わしいため、全員を定時まで新租界内で待機させ、全員まとめて行列として護送する予定である。
――そういうのは柘榴隊の連中の大得意だからな。
月牙は頭領らしい誇らしさをもって思う。
月牙配下の平隊士たちは、武術に関してはずぶの素人というほどではない。
元々後宮領の参詣衛士――七年に一度の媽祖大祭の折に大社を詣でる王太后さまと正后さまの参詣行列の護衛を家職としてきた半農半武の家々の子弟である。実際の護衛の機会が七年に一度しかないため、経験こそ乏しいが、みな在所で催される月に一度の調練には参加し続けていたはずだ。そのなかから月牙自身が立ち会ってある程度の腕のある者を選び出したのだから、刀を持たせればみなそれなりの働きはできる。
そのうえ、直前の媽祖大祭はまさに昨年の末、月牙がまだ外宮妓官の頭領と呼ばれていたころに催されている。今の隊士たちはそのとき全員行列の護衛を実地で経験しているのだ。
――懐かしいなあ。私は王宮から賜った白い馬に乗って、御子を産まれたばかりの正后様の御名代をなさった前の石楠花殿さまの御輿の先導をしたんだ。沿道に沢山人が集って私の名も呼んでくれた。
柘榴庭さま!
柘榴庭さま!
そのときの歓呼を思い出すたび、月牙は大声で泣き叫びたいような哀しみに駆られる。
それは後宮女官としての最後の行列だった。
媽祖大祭を終えると外宮は正式に後宮から切り離され、護衛のために集っていた行列衛士たちは、尚書令たる左宰相公の鶴の一声によって、そのまま洛東巡邏隊として編成され直した。
――石楠花殿さま――違う、前の石楠花殿さまは、他の三貴妃様と違って、結局あの後もお宿下がりはなさらず、東院で王太后様にお仕えする内侍となられたのだよな。
二年前、若い双樹下国王がリュザンベール人のジュヌヴィエーヴ・ド・ランクロをただ一人の后として定めると、内宮西院に住まっていた四人の貴妃たちは全員が暇を出された。
――茉莉花殿さま。芙蓉殿さま。紫微殿さま。お宿下がりをなされた三貴妃さまは、今はどうなさっているのかなあ……
最後まで外宮妓官だった月牙は、花の名を冠した西院の四殿に住まっていた貴妃たちをじかには誰も知らない。最後に御輿の警衛を担った石楠花殿さまだけが、内宮に帰り着いたとき、御輿の帳のなかから、
柘榴庭、最後の務め、大義であったの。
と、静かで悲しげな御言葉を下されただけだ。
月牙がぼんやりと昔日の後宮の彩りを思い出していたとき、
「と、頭領」
第一小隊の筆頭火長を務める蘇子明が震える声で呼んだ。
「どうした子明」
「何やら仰々しい御輿がいらせられます」
子明の指さす先に見えるのは、なるほど仰々しい輿だった。
円錐型の金色の天蓋から薄紅色の羅の帳を垂らし、頂に幟を立てて、赤く長い房飾りを微風にたなびかせている。
先導するのは揃いのつややかな黒馬に騎乗した赤い装束の護衛。後ろには同じ赤っぽいお仕着せ姿の侍女が四人付き従い、マスケットを担った徒歩の護衛二人が後ろを守っている。
輿の長柄を担うのは、これも揃いの赤い袖無しに白い袴で装った八人もの眉目秀麗な若者たちだ。
――え、八人?
月牙はぎょっとした。
輿の担ぎ手の人数は、臣として最高位の左右宰相公の家中であっても六人までと上限が定められている。
八人担ぎの輿が許される女君は――
--ええと、正后様か降嫁された公主〈*王女〉か前の王太后様のほかには、今はもういない四人の貴妃様のどなかただけなんじゃーー
――どなただ? 一体どなたなんだ?