第一話 ぼたんはどこに消えた?
「ぼんそわーる。まだむ。こまんたれぶ?」
現職に任じられるにあたって必死で諳んじた開門の呪文(午後から夕方用)を心許なく唱えながら、マドモアゼル・キキの「お屋敷」に足を踏み入れるなり、
〈女隊長! 来るのが遅すぎます! もしこれが現行犯の急報だったらどうするつもりなんですの!?〉
殆ど全く聞き取れない異国語の怒声が頭上から降り注いできた。
「す、すみません!」
女隊長こと蕎月牙は慌てて謝ってしまってから気づいた。
今のは双樹下語だった。
――ええと、リュザンベール語で「すみません」って何というのだっけ?
――えくせ、えくせ、えくせ、えくせ何とかだったような?
頭の中が真っ白でとっさに思い出せない。
月牙の謝罪を待ちかねるように、怒声の主は深い緋色の毛氈を敷いた十三段の階段の上で、腰に手を当てて仁王立ちしている。
いつ見てもとても怖い、と月牙は内心で正直に怯えた。
双樹下人男性の平均身長なみの長身を誇る月牙と殆ど同じ背丈ながら、たぶん体重は二倍くらいある。
年齢は――分からない。
ちょっともう同じ人類なのかさえよく分からない。
リュザンベール人とか双樹下人とか、そういう人種国籍の問題ではないのだ。
足首だけが妙に細い巨体を柔らかそうな襞の多い白いローヴに包んださまは尾鰭で立った巨大な白アザラシのようだ。
何の油を塗っているのかテラテラと玉虫色に輝く黒髪をこめかみが引きつりそうなほどきつく結い上げ、顔一面に白粉を塗り、唇は真っ赤に、まぶたはクジャク石色に塗り立てている。その丹念に描き尽くされたような顔は静止状態で正面から見れば非常に美しいような気がしないでもない。
彼女の通称はマドモアゼル・キキ。
本名はアリス・エルネスティーヌ・プランというらしいが、その名を正確に発音できる人間は今の新租界には十二人くらいしかいない。
双樹下国の正后たるレーヌ・ジュヌヴィエーヴ直属のドレスメーカーである。
〈あなた、王宮から首都近郊のリュザンベール人居住区の警備を任されているのでしょう!? わたくしどもは恐れ多くも王妃さまの服飾を承る御用達のメゾンですのよ!? リュザンベール人を狙うテロリストが日夜町中を闊歩しているこのご時世、わたくしやわたくしのお針子たちに万が一のことがあったらどう責任をとりますの!? それからわたくしはマドモアゼルです! 二度と奥様とは口にしないように!!〉
怒濤のごとく怒号が続く。
「――おい楊春、お前リュザンベール語は?」
右後ろにひっそり控えるお屋敷警備の平隊士――そもそもこいつが「まだむが何か怒っている」という曖昧極まる報告を抱えて隊長の月牙を司令部へ呼びに来たのだ――にこそこそこそっと訊ねると、いかにも田舎から出てきたばかりといった純朴そうな少年は子ウサギみたいにぴるぴる震えながら答えた。
「お、お、お、恐れながら頭領! このごろぼんじゅーると覚えました!」
――だよねえ。
月牙率いる尚書省直属の洛東巡邏隊、通称「柘榴隊」の平隊士は、後宮領から徴集された十八歳から二十五歳の若者二〇〇名からなる。
元々が荘園の農民の子弟だ。それが一ヶ月交替の上番制で代わる代わる上洛しているにすぎない。
半年前に新租界が成立して以来常駐している隊長の月牙が今もって挨拶しか覚えていないのに、この若いのがそれ以上何か話せるはずがないのだ。
若者の順応性にちょっと期待しすぎたようだ、と当年二十八歳の月牙は反省した。
〈ねえ聞いていますの女隊長!? 取り柄はそのきれいなお顔だけなの? まともに仕事ができないんならお人形さんに徹しなさいな!〉
階段の上でマドモアゼルが今もって怒鳴っている。
可哀想な楊春は顔面蒼白だ。
月牙はどうにかこうにか第二の呪文を思い出した。
〈すみませんマダム。わたしリュザンベール語話せない〉
割と滑らかなリュザンベール語で何とかそれだけ告げるなり、マドモアゼルはぐいっと両眉をあげて叫んだ。
〈ああもう、この国の役人はどいつもこいつも、どうしてその台詞ばっかり流暢に口にしますの……!!〉
何かものすごく怒らせてしまったようだ。