お昼ごはんは待ちに待った”お好み焼き”!そして、午後からは平和公園で研修だ。
マツダを見学した後、私達は広島駅へと戻って来た。
「では、昼食休憩をとります。ここ広島駅ビルekieには沢山の飲食店が入っています。皆さん各班毎に行動し、昼食を摂ってください。一時間後、再びここに集合です。解散!」
「では、ドルフィンちゃん、お好み焼き屋にぃ、レッツらゴウだ!」
花音ちゃんが待ちかねたように誘ってきた。まぁ、私も新幹線の中で話を聞いてからそのつもりだったけどね。他の人達からも異議は出なかったので、我が班はお好み焼き屋探索の旅に出たのだった。
「むむっ!?ドルフィンちゃん、駅ビルの中だけでもお好み焼き屋が八軒もあるよ・・・ど、どの店がいいんだろう?」
「うん・・・ちょっと待ってね。」
そう言って私はスマホで検索をかけ、お店の評判を見てみた。
「うーん・・・どのお店も美味しいみたい・・・ただ、“みっちゃん”が美味しいって書き込みが比較的多い気がする・・・。」
「よし、ではそこにしよう。」
こう言う時、花音ちゃんの判断は早い。流石はハンドボール部のエースだ。
「一階の“ekie DINING”の“廣島ぷちうま通り”ってとこにあるみたい。」
「善は急げだ。皆、行くよ!」
お店はすぐに判った。既にお昼時を過ぎていたからか私達五人はすぐに入ることができた。
「いらっしゃい!メニューはお決まりで!」
「はい!私は“そば肉玉子ミニサイズ”で!」
私は普段からそんなに食べないからなぁ・・・このミニサイズ、“女性やお子様におすすめ”って書いてあるから、手頃な大きさなんだろうな・・・そう思って注文した。
「あっ!私も同じものを。」
「私も。」
「私も。」
なんか皆付和雷同的に私と同じものを注文したぞ。自分が食べたいものを頼めばいいのに。
「私は、“イカ天そば肉玉子”!“麺ダブル”で!」
うおっ!?花音ちゃんなんか凄いのを頼んだぞ!
「お姐さん、結構な量があるけど大丈夫かい?」
お店の人が心配して訊ねてくれたけど、花音ちゃんは平気そうだ。
「大丈夫です!私、運動部なんで男子並みに食べますから!」
「そうかい、それは頼もしいな。では、オーダー確認します!“そば肉玉子ミニサイズ”が四つ、“イカ天そば肉玉子麺ダブル”が一つですね?」
「「はい!お願いします!」」
私と花音ちゃんがハモッて返事をした。他の三人は大人しいなぁ・・・返事ぐらいしてくれよぉ。
「ふっふっふ・・・楽しみぃ。」
花音ちゃんはニコニコ顔で待っている。
奥の長細い鉄板では店員さん達がじゅーじゅーとお好み焼きを焼いている。音を聞いてるだけで美味しそうだ。待ち遠しいなぁ・・・。
「へい!おまちぃ!“そば肉玉子ミニサイズ”が四つ、“イカ天そば肉玉子麺ダブル”が一つです!」
おおっ!?来た来た!
☆
再集合した後、私達は広島電鉄に乗って平和公園を目指した。広島電鉄は路面電車だ。私達の地元では路面電車はほぼ絶滅種で、私も乗ったどころか見たことも無かった。電車が自動車に混ざって道路を走る風景は不思議な感じがした。
「いやぁー、ドルフィンちゃん、お好み焼き美味しかったねぇ。」
「うん。いつも食べてる関西風のお好み焼きはどっしりしているけど、広島のはあっさりしてて幾らでも食べられそう、と思わしといて意外とお腹が膨れるんだね。驚いたよ。」
「私もあっさりしてるように感じたなぁ。麺をダブルにしておいて正解だったよ。」
花音ちゃん、あの大きなお好み焼きをペロリと食べちゃった・・・本当に“男子並みに食べる”と言う言葉に嘘偽りは無かったんだ。凄い・・・。
そんな馬鹿話をしている内に目的の駅に着いた。“原爆ドーム前”駅だ。
中央分離帯のようなホームに降り立つと、その両端に信号と横断歩道があった。人数が多い私達は二手に分かれて道路を横断し、原爆ドームの前にある公園内で整列、点呼を受けた。
その後、地歴公民科の教師である担任の田子先生がドームについて説明をしてくれた。
「原爆ドームは、チェコの建築家ヤン・レッツェルが設計し、一九一五年、大正四年に開館しました。開館当初の名前は“広島県物産陳列館”で、一九二一年、大正十年に“広島県立商品陳列所”に、一九三三年、昭和八年に“広島県産業奨励館”に改称されました。
原爆ドームが建てられた当初の目的は、広島県産の製品の販路開拓の拠点を作ることにありました。ちなみに、皆さんも良く知っているドイツのお菓子、バームクーヘンは一九一九年、大正八年にここで開催された“似島独逸俘虜技術工芸品展覧会”で、初めて製造販売が行われたお菓子です。
また、時代が昭和になると盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献しました。しかし、一九四四年、昭和一九年からは、長引く戦争を背景に奨励館業務は停止され、内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材広島支社と言った行政機関や統制組合の事務所として活用されるようになっていました。
一九四五年、昭和二十年八月六日、午前八時十五分、アメリカ軍のB-29爆撃機、通称“エノラ・ゲイ”から投下された原子爆弾が、原爆ドームから東へ百五十mの地点、約六百m上空で炸裂しました。
たった一発の原子爆弾によって広島市は壊滅しましたが、いくつかの建物は残りました。その一つがこの原爆ドームです。
原爆炸裂後一秒以内に三階建ての本体部分はほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、このように枠組みと外壁を中心に残存しました。
ドーム部分が全壊しなかった理由として、一、衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと。二、窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける条件が整ったこと。三、ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根が銅板だったため、爆風到達前の熱線により屋根が融解して爆風が通過しやすくなったことなどが挙げられています。」
なるほど・・・何で爆心地に建物が残ったんだろうと思ってたけど、そう言う訳だったのかぁ。それにしてもやっぱり実物は凄い。建物は言葉をしゃべらないけど、私の心にぐいぐい何かを訴えかけてくる。
原爆ドームを時間を忘れて見上げていると、花音ちゃんが声を掛けて来た。
「ドルフィンちゃん、次の目的地に移動するって。」
「えっ?あ、ああ、有り難う、花音ちゃん。」
「熱心に見てたけど、どうしたの?」
「うん?あぁ、原爆ドームがね、何だか語り掛けてるような気がして・・・何が言いたいんだろうって、耳を傾けてたんだよ。」
「ドームが語り掛ける?」
「うん、そう・・・。」
「私にはただの廃墟にしか見えないんだけどなぁ・・・。」
「ふふっ・・・こればかりは人それぞれじゃないかなぁ。少なくとも私には語り掛けてくれたんだよ。」
「うーん・・・私にはよく判んないなぁ・・・。」
「気にすること無いよ。別にそれが悪いって訳じゃないんだから。」
そう、どう受け止めるかは人それぞれだ。ものはしゃべれない。だからそれから何を聞き取れるかは受け手側の感性しだいで変わるだろうから・・・。
「皆、移動してるね。急いで追いかけなきゃ。」
☆
原爆ドームの前から南に百六十mほど歩くと元安橋と言う橋に辿り着く。この橋を渡ると、そこには有名な“原爆の子の像”があった。
“原爆の子の像”は、原爆による白血病で死去された佐々木禎子さんをモデルに創られた像で、禎子さんの同級生らによる募金運動により作られたものだ。像の周りには折り鶴置き場が設けられていて、日本国内は勿論のこと、世界各地から持ち込まれた多くの千羽鶴が寄贈されている。
“原爆の子の像”のすぐ南側には“平和の灯”があった。
一九六四年に建立された鉄筋コンクリート製の灯台は、手首を合わせて手のひらを大空にひろげた形を表現していて、その中央で火が焚かれている。完成してから現在までこの火はずっと消えずに燃えている。この世界から核兵器が無くなるまで灯が消されることは無いんだそうだ。
“平和の灯”を右手に見ながら南へ移動すると左手に木々に囲まれた小さな建物があった。窓も無いその建物は遠目には倉庫みたいに見えた。
「はい、ここで止まって!出席番号順に整列しなさい。」
私達は先生の指示に従って整列した。
「ここは“被爆遺構展示館”と言う。二〇一九年の発掘調査で見つかった当時の街の遺構を展示している建物だ。見ての通り、この建物は小さい。館内の温度や湿度は遺構の保存の為に一定に保たれている。なので、各クラスを半分に分けて、4グループ交代で見学する。ガイドさんの指示には必ず従うように。」
先生と交代する形でガイドさんが私達の前に立った。初老の男性だった。
「東和高校の皆さん、よくお出で下さいました。ガイドの加藤です。ここは“被爆遺構展示館”、令和四年の三月に開館したばかりの新しい資料館です。
この展示館には、被爆の実相を皆さんに直接見て肌で感じていただけるよう、原子爆弾による被害の痕跡が残る住居跡やアスファルト舗装された道路跡などを露出展示しています。
被爆当時の町並みの遺構を通じて、平和記念公園を訪れる人々に、ここにはかつて多くの人が暮らす町があったこと、そしてここに暮らしていた人々の日常がたった一発の原子爆弾により一瞬にして失われてしまったこと、そして被爆後の先人たちのたゆまぬ努力によってここが平和で美しい町として復興を遂げたことを知っていただきたいと思います。」
そう言うと加藤さんは7組の半数を建物の中に導き入れた。
10分ほど経つと、入口から加藤さんが現れて7組の残りを招き入れた。さっき入った7組の前半は逆側の出入り口から出たらしい。また10分経ったところで私が含まれている8組の前半グループが招き入れられた。
建物の中央に3.2m四方の掘り下げられた空間があった。その中に被爆遺構、かつてはこの地にあった“旧中島地区”という繁華街の住居跡と道路跡が露出展示されていた。
「足元を見てください。床が白い部分がかつて道路があったところで、ここ茶色の部分からこちらが家が建っていたところです。」
ガイドさんが丁寧に当時の街並み、家屋の様子を説明してくれた。
うん?土の色が部分毎に違うぞ?なんで?
「ここを見てください。ここだけ土の色が赤くなってますよね。また、こちらは黒くなっています。赤い部分は土が高温で焼かれて、土に含まれる鉄分が酸化したことを示しています。また、黒い部分は畳の藁が炭化して残ったものです。原爆の爆風によって建物が押し潰されて壁や屋根が覆い被さり、その中で長時間高熱で蒸し焼きにされたために起こった現象です。」
遺構の上部にはモニターが設置されていて、当時の様子や町並み、原爆投下前後の変化などが映像で再現されていた。お話を聞きながら映像を視ると、原爆投下時にどんなことが起こったのかが良く判った。
次のグループと交代しなければならなかったので、私達が遺構を見れたのはほんの数分間だった。それでも学べたことは多かった。




