手作りジャムも完成!私達は研修旅行の最終目的地”大久野島”へ・・・わぁー!ウサギさんが一杯だぁ!
私達が最初に案内されたのはシアターだった。ここではジャムの歴史やジャム工場の秘密をテーマにしたアニメ映像が上映された。次に移動したギャラリーでは、創業以来のアヲハタ製品と現在の製品、世界のジャムが並べられていた。ジャムについて、そんなに知識を持ち合わせていないから凄く勉強になった。これで私もジャムマスターだ!えへへ・・・。
続いて、ジャムデッキからは一旦外に出て、隣接するジャム工場の見学に向かった。工場では案内役の社員さんがいて、生産工程を見学しながら、アヲハタがより美味しいジャムを作るための研究を如何に重ねてきたかや安心安全なジャムを消費者に届けるために行っている徹底した衛生管理について説明してくれた。また、最新の製造機械が美味しさを追求した結果出来上がったことなども熱く語ってくれた。残念ながら工場内は動画、静止画問わず撮影はNGだったので、記録することはできなかった。まぁ、企業秘密が満載だろうからこれは仕方無いよね。
最後に訪れたのは試食コーナーだ。期間限定のジャムやここでしか売っていないジャムなど、普段はお店で見ることの無い様々なジャムを試食させてもらえた。因みに試食に使うパンもおいしかった。パンに付けて食べるだけじゃなくて、ジャムそのものをお湯で割ったものもいただいた。想像もしていなかったものだけど、結構病みつきになる美味しさだった。また、ジャムのシャーベットもいただいた。これも凄く美味しい!
売店では、こういった普段スーパーで見かけないジャムも売っていた。他にもエプロンやノート、キーホルダーなどのグッズも売っていて、お値段は私から見てもお手頃だった。残念ながらお小遣いの残りが少なかったから買えなかったけどね。
さて、そうこうしている内に一時間なんかはあっと言う間に過ぎ、私達はジャム工房に戻ってきた。
『皆様、お帰りなさいませ。工場見学などは如何でしたか?さて、皆様がおつくりになったジャムが冷めたことと思います。どうぞ、お持ち帰りください。なお、瓶の中のジャムは未だ見た目が水っぽいかとは思いますが、ジャムはゆっくりと固まります。明日までお待ちください。皆様が想像するジャムの固さになっているはずです。
開封後は、必ず冷蔵庫に入れ、清潔なスプーンなどを用いて、3週間を目安にお早めにお召しあがりください。
未開封なら、常温で1年間もちますが、保管場所は冷蔵庫がベスト。ただし、時間が経つと、色や香味が落ちてきてしまいます。ご注意ください。』
こうして、私達は手作りのジャムをゲットした。市販のものとは違って、自分が作ったってだけで特別感がある。うん!良いお土産ができたな。
☆
ジャムデッキを後にした私達は、そのまま歩いてすぐのところにある忠海港に移動した。最後の目的地、大久野島に行くためだ。大久野島については事前学習で随分調べたから、か・な・り・詳しくなった。
大久野島は、忠海から沖合い三kmに位置する周囲四.三kmの島だ。終戦まで旧陸軍の化学兵器製造工場があったので、地図からその存在が抹消されていたから、“地図から消された島”と呼ばれている。また、最近は多数のウサギがいることで知られていて、一般には“ウサギ島”として有名だ。
島の歴史は日本軍の戦略に振り回された歴史だ。明治時代は、外敵の侵攻を阻止するための要塞砲台が建設された。“芸予要塞”と呼称されている。それが昭和初期には“東京第二陸軍造兵廟忠海製造所”すなわち化学兵器工場が島に移され、太平洋戦争が終結するまで各種化学兵器の製造が行われた。
化学兵器とは、大量破壊兵器の一つで、一般的には“毒ガス”として知られている。ここ大久野島で製造された化学兵器を陸軍は“黄色”“茶色”“赤色”“緑色”という色で種類を示していた。
“黄色”は“糜爛剤”のことで、“黄一号”が“イペリット”、“黄二号”が“ルイサイト”を示していた。“糜爛剤”は液状の薬物で、人体に付着すると皮膚を糜爛させ、その後徐々に内部傷害も起こす恐ろしい毒ガスだ。
“茶色”は“サイローム”のことで、猛毒の青酸ガスを発生させる液体だ。
“赤色”は“くしゃみ剤”のことで、燃焼させると気化ガスを発生させる薬物だ。そのガスを吸うと精神に異常をきたして最終的には狂い死するという猛毒だった。代表的な成分は“ジフェニール・シアン・アルシン”だ。
最後の“緑色”は、現在でも暴動鎮圧用に使用されている“催涙ガス”のことで、代表的な成分は“クロロアセトフェノン”だ。
大久野島では、これらの毒物が日中戦争から第二次世界大戦にかけて大量に製造されていた。その機密性から毒ガス工場の存在は秘匿され、陸軍が発行した地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われた。戦時中は、地元の農民や漁民、勤労動員学生ら六五〇〇人が一定の養成期間を経た上で製造作業に従事していた。しかし、昭和二十年、戦局の悪化により化学兵器の生産は縮小され、一部の毒ガスは海洋投棄と言う形で処分された。
終戦当時島内には、イペリット一四五一トン、ルイサイト八二四トン、クシャミ剤九五八トン、催涙ガス七トン、計三二七〇トンと言う膨大な量の毒ガスが残留していた。そこで、戦後、GHQや政府により施設解体と共にこれら残された化学兵器の処分も行われた。処分は、周辺海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での埋め立て処分といった方法で行われ、除毒措置も施されたが、処分は十分とは言えず、現在でも島内地下四~五メートルの土壌で高濃度のヒ素が検出されている。
以上が、私が調べた事前学習の内容だ。
☆
さて、忠海港から大久野島へはフェリーで渡ることになる。乗船するフェリーは総トン数二百九十八トン、全長四十九.九メートル、全幅十一メートル、航海速力十一.七ノット、旅客定員三百名と言う宮島フェリーと同様の小型船だ。
とにかく内陸生まれ内陸育ちの私達は海が好きだ。海を見るだけでテンションが上がる。ましてや船に乗るなんてことは凄く特別なイベントとなる。なので私達は周りの眼を気にすることなく大はしゃぎしてしまった。大久野島へは忠海港からわずか十五分ほどだ。きゃーきゃー言いながら写真を撮り合っている内に到着してしまった。
フェリーから降りるとすぐに沢山のウサギ達が私達のもとに駆け寄ってきた。
「きゃぁー!可愛いー!」
「ウサギさんが一杯だぁー!」
皆可愛らしいウサギに萌え萌えだった。なるほど、“ウサギ島”と呼ばれることはある・・・私はその時はその程度に思っていた。しかし、その認識が間違っていることが段々と判ってきた。と言うのも、島で唯一の宿泊施設である休暇村大久野島に近付くにつれてウサギの数がどんどん増えていったからだ。
「え、えー!何、この数。ウサギだらけじゃん!」
「凄い数だなぁ・・・。」
私は感心しながら鞄の中からまず手袋を取り出してそれを手にはめ、続いてウサギの餌を出した。餌を手の平に乗せてしゃがむと、ウサギ達が山ほど寄って来た。
「えっ!?ええっ!?ドルフィンちゃん、その餌、どうしたの!?それに手袋も!」
花音ちゃんが驚いて声を上げた。私は事も無げに答えた。
「どうしたのって、忠海港の待合所に売ってたよ。」
忠海港の待合所にウサギ用の餌と手袋が売っていた。売り場には注意書きが貼られていて、そこには素手で餌やりをするとウサギに噛まれて怪我をすることがあるから、手に乗せて餌をやりたい時は手袋をはめるようにと書かれていた。
「だから素直に餌と一緒に手袋も買ったんだ。」
「ええーーー!そんなのに気付いてたんだったら教えてよぉ!」
「えっ?ウサギに餌、やりたかったの?誰も売り場に関心を示さなかったから皆ウサギへの餌やりには興味が無いのかなぁって思ってたよ。」
「そんな訳ないでしょ!やりたいに決まってるじゃん!売ってることに気が付かなかっただけだよ!」
「それじゃぁ、手袋貸してあげるから、餌あげてみる?」
「貸して貸して!餌、あげてみたい!」
私は片方の手袋を花音ちゃんに貸して餌を乗せてあげた。花音ちゃんが手を差し伸べると、ウサギ達が寄って来て餌をぽりぽり食べ始めた。
「きゃぁー!可愛い!見て見て、私の手から餌を食べてるよぉー!」
花音ちゃんめっちゃ嬉しそうだ。顔がにやけてる。
「もう一回あげる?」
「やるやる!餌、乗っけて!」
私は花音ちゃんの手にもう一度餌を乗せてあげた。今度もまたウサギ達は美味しそうに餌を食べた。うん、やはり可愛いな。私ももう一度餌をやろう。
買った餌を全てやり終えた頃に集合の号令がかかった。研修の前にお昼ご飯を食べるためだ。
お昼ご飯は休暇村の中にあるレストランで名物の“タコよくばり定食”をいただいた。定食の内容は、タコの炊き込みご飯、タコの天ぷら、タコの刺身、みそ汁、香の物。凄く美味しかったんだけど・・・。
「ドルフィンちゃん、どうしたの?あんまし箸が進んでないじゃん。美味しいよ?」
「あはは・・・実は、アヲハタでの試食で結構お腹が一杯になっちゃったんだよね。私、小食だから・・・。花音ちゃん、よかったら私の半分食べる?」
「えっ、いいの?」
そんな訳で半分花音ちゃんに食べてもらった。花音ちゃんも私と同じだけ試食したんだけどなぁ・・・。まるでそんなことを感じさせない食べっぷりだ。凄いなぁ・・・。