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横浜に戻る。同じ家かと思っていたが、前に住んでいた家の隣町、青嵐学院大学から近い住宅街にある中古の一軒家だった。以前の家よりも半分ほどの2階建て住宅には玄関前に駐車場があり、母が乗るための軽自動車が停められていた。引っ越しのトラックから荷物を下ろすと、母と一緒に荷をほどき、寺を出る時に持たせてもらった弁当を皆で食べてから風呂に入り、布団を三枚敷いて家族三人で眠った。
学校に登校する初日。まだ陽が登らないうちに目が覚めた。大丈夫なはずだった心が折れて行く音が聞こえる。前の日に用意していた時には感じなかった恐怖心が顔を出してきた。静かにトイレに行くと嘔吐した。鏡を見て『大丈夫。大丈夫。』と唱える。
朝は食事が喉を通らなかった。母にはにこやかに「緊張してるの」と言って心配させないように演戯した。
登校予定の時間になると、寺に来ていたスーツ姿の男性が迎えに来た。三人で用意された車に乗せてもらい小学校へ向かう。
自動車で行くほどの距離ではない事が直ぐに分かった。
車を降り、職員室へ通される。母は弟の担任と話し、自分の対応はスーツの男性がしてくれた。丹沢の学校には従兄の俊之がいつも一緒にいてくれた。今は誰もいない。恐怖で手が震えるのを、手を強く握ってごまかした。母は気が付いていたが優しく微笑んで送り出される。
担任の先生について行き教室のドアをくぐった。
当日の記憶はそこまでしか無い。気が付くと朝の男性が弟と一緒に自宅まで送ってくれていた。家に着くと、まだ温かい弁当を二つ渡されて「明日からは頑張って登校してね。」と言われ。「はい。」とだけ答えた。
弟に玄関を開けてもらい弁当を持って中に入ると膝を落として泣き出してしまった。
弟が弁当の袋を持って中に入り、暖房をつけてポットのスイッチを入れてから迎えに来てくれた。「ごはんたべよう」右手を弟の両手が掴み、靴を脱がしてくれる。「うん」と言って部屋に上がった。『私が頑張らないと。』心を奮い立たせて居間に入る。部屋は暖かくポットから湯気が上がっていた。
夜遅くなって母が帰って来た。「ご飯食べた?」と聞かれ、「おじさんがお弁当くれたよ。」と弟が言う。「シフト表貰ったから、明日からはご飯作れる日とお弁当の日をきちんと用意するからね。」と優しく言っていた。
母は自分を見て全て分かっているようだったが、優しく微笑んで「お風呂入ろう」と言って皆で入っていつものように寝る。母は自分の布団に入って来て優しく抱きしめてくれた。
次の日の朝だった。登校する時間になって玄関のベルが鳴った。一緒に出勤しようとしていた母がドアを開けると。三人の少女がいた。
「おはようございます。雫ちゃんを迎えに来ました。」
ハキハキした通る声で一番背の高い娘が言っている。
母は「あら。おはようございます。迎えに来てくれたの?ちょっと待ってね。」と言って自分と弟を呼んだ。
見覚えがあるようで誰か分からなかった。
「雫ちゃんおはよう。一緒に行こう。」
自分を見ると、そういって言って勝手に玄関に入り、手を取って引っ張る。靴を履かせて一緒に玄関を出ると、母に向き直った。
「同じクラスの森澤麗香です。こっちは私の妹の美鈴。翔君の隣のクラスです。あの子は水橋寛美。これから毎日来ますからよろしくお願いします。」
母も最初は面食らっていたが満面の笑みで「こちらからもよろしくお願いします。」と言って送り出してくれた。
それから彼女たちは本当に毎日迎えに来て、学校が終わると家まで送り届けてくれた。
冷たい雨の日も、大雪が降った日も必ず三人揃って出迎えてくれて、皆で一緒に帰って来た。麗香と寛美は小学校に入ってからの親友であり、寛美は常に学内トップの才女で、あまりしゃべらないが、いつも優しく静かに微笑んでいて、近くにいてくれるだけで心が落ち着いた。麗香も寛美程ではないものの成績は良く、どんな時にも公平に仲間を守っていくリーダー的な存在だった。何よりも二人は小学生ながらテレビや映画に出てくる女優やモデルのような整った顔と綺麗なスタイルをしていて何故自分と一緒にいるのか不思議だった。
二人に支えられ、学校にも慣れてくると次第に心が軽くなり、自然に笑える自分に気付く。同時に学校には麗香達以外にも自分を受け入れてくれている仲間がいる事が分かり、自分の居場所がある事を感じるようになった。
友達が増えても麗香と寛美は自分にとって完全に別格な存在となって行った。
三学期が終わるころ、年度末試験が終わりそれぞれの家にも遊びに行く機会がきた。
寛美の家は比較的近くだったが、森澤姉妹の家は一駅隣である事を知ったのは春休みに入ってからの事だった。
後に、麗香にその当時の事を話したことがあったが麗香は。
「あんた、最初の日。挨拶してから一言も話さないで幽霊みたいだったのよ。悪いとは思っていたけど学校の皆は雫の家庭の事情を知っていたの。私達は事情を知った以上、絶対に孤独にさせない。って皆で決めたのよ。だから寛美と送り迎えだけでもやって行こうって話し合ったの。私にとってはただの朝練よ。朝練。」
と、さらっと言っていたが、そのおかげで今がある。感謝していると伝えた。
麗香はただ「ふ~ん。そうなの?」とだけ言って笑っていた。その笑顔はとても美しく、祖父が話していた吉祥天の姿を映し出していた。