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北棟8階、小児科病棟のナースステーションを挟んで東側の個室に翔は入院していた。
深山が誘導して部屋に入ると母親の弥生と宗麟がいて主治医の水江裕子から検査結果を聞いているところだった。こちらに気付いてお互い会釈する。
「楓さん?」目を丸くした水江が声をかける。弥生たちに黙礼して小走りで近づいてきた。
「元気そうね。忍ちゃんは変わりない?」楓が小声で話しかけ差し出された手を握る。
「ええ。おかげ様で。もう二年生です。今年も春の運動会に参加できました。」
「よかったね。もう大丈夫だと思うわ。」強く握られていた手を優しくほどきながら言った。
水江は楓の肩を抱いてドアの裏へ行き、さらに小声で訴える。
「楓さん。来てもらって本当に良かったです。検査結果は正常なのに意識戻らなくって。それだけなら症例はあるのですが、少しおかしい・・・というか、一日のうちに急激な悪化と回復を何度も繰り返しています。私的意見ですが、まるで体の内で破壊と再生を繰り返しているような感じです。県立病院からの報告も処置が精一杯だったらしく投げやりな感じがあって。うちでも他の先生は診たがりません。私も訳が分らなくて。深山さんに強力な助っ人を必ず呼ぶからそれまで持ちこたえてくれ。って言われた時、楓さんかなって期待はしたんですけど。本当に楓さんが来てくれるなら引受けて良かったです。」正味一日で相当な変化があったことを物語っていた。水江の様子からは孤軍奮闘の影が見える。
「まずは診てから。法律的なことは・・・」
「私が責任を取ります。」水江は小さくガッツポーズをした。
左手で頬を拭い、振り返って病室に入り弥生たちに紹介した。
「こちらの方は、東洋医心研究所の秋月楓先生です。小児科医の私がこんなこと言ってはいけませんが、これで翔君は回復いたします。」水江は自分の事のように胸を張った。
「ちょっと。まだ何も診ていないうちから断言しないでよ。」腰に手を置き、背筋を伸ばしながら楓は言い、ベッドの翔に目を移した。
弥生も宗麟も唖然とした。目の前に紹介された少女が「先生」だという。後ろに置き去りにされている新井や深山、史隆に目が泳いだ。
「史隆君。戻られたか。この度はご愁傷様です。」宗麟は合掌しながら頭を垂れた。
「英さん。いや宗麟和尚。いろいろとご迷惑をおかけしました。兄に代わってお礼申し上げます。弥生義姉さん。お悔やみ申し上げます。大事な時に力になれなくて申し訳ありません。」史隆も頭を下げた。弥生は何も言わずお辞儀を返した。
「ところで、その。こちらのお嬢さんが・・・いや、失礼。先生が翔を救っていただけるということなのですか。」宗麟の疑問は当然であった。
紹介されたこの秋月楓という女性は、身長150センチメートル程度。長身の史隆と並ぶと頭一つ低い。身体の小ささだけではなく、明らかに若い。高校生と言われても疑う余地がない。むしろ高校生と紹介された方が納得できる。黒いロングドレスが何かのコスプレと言われても違和感がない。しかし、佇まいや表情からは大人の落ち着きと妖艶な色気を感じさせる。
「154ありますよ。」悪戯な少女の顔で宗麟に言う。
宗麟は面喰って頭を掻いた。心を読まれている。占い師に多いコールドリーディングの類かとも思ったが、この少女から悪意はまったく感じられない。
「秋月先生は先ほどご紹介されましたように東洋医心研究所で専任の鍼灸師をされていて、漢方や気功にも精通されています。こちらの水江先生のお嬢様も難病に苦しんでおられましたが、先生の診察により今では元気に過ごせるようになりました。今回、翔君をこちらの病院に移転したのも隆一さんの件だけでなく、水江先生に主治医になっていただき秋月先生との連携をお願いしたいと考えましたので、史隆さんのご帰国に合わせてご足労願いました。」深山が説明をして楓を翔の前にエスコートした。
楓は翔を診る前に弥生に向いて許可を仰いだ。弥生の方が、少し背が高かった。
「お願いします。もう一週間意識が戻りません。急に苦しんだり安定したりの繰り返しなんです。先生方も原因不明としか教えてくれないんです。」頭を深く下げ声を嗄らして訴えた。もう何日も寝ていない。看護師の資格を持つ弥生は検査内容には詳しかった。理解できる分、他人よりも苦しさは増した。心だけでなく髪の毛も皮膚もボロボロである。
弥生の肩にそっと手を回し、「あとは任せて、少しおやすみなさい。」耳元で囁いた。
温かいものが肩から流れ込み心臓を還して全身に行き渡る。胸から下半身へ、そのまま両脚、戻って両腕に幾重もの螺旋を描きながら循環していった。螺旋が首を通り抜け頭頂に達すると手足の指先が温かくなるのを感じる。緊張していた身体が急に軽くなり、全身の力が抜け、ふらふらと近くの椅子に崩れるように座り込んでしまった。楓に触れられてから、ものの数秒も経っていない。
心配した宗麟に「大丈夫ですよ。」と言ったのは史隆だった。深山と新井が弥生をソファーに移しシーツをかけて横にした。そのまま弥生は寝息を立てている。
楓は一連の動きを目で追い、史隆に合図をしてからベッドへ向き直した。
「さてと、翔君。診させてね。」と言い、掛布団をゆっくりとはがす。
振り返って点滴を外してほしいと指さし、水江が処置した。楓の診察が始まる。