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駅の向かいにある保育園に編入し、母は駅ビルの中にある病院に勤務した。
新しい生活が始まる。
品川では、ビルが建ち並び、行き交う人がいつも怒って見えていた。
ここでは、駅前を除けば木造の戸建て住宅が多くて空が広く、近所の人達は皆優しく笑いかけて挨拶してくれる。近くの田んぼからは、夜も蛙の鳴き声がこだましていた。
ゆっくりと時間が流れる生活があった。
そして、最も大きな違いは「水江」という、祖母と同じ苗字になった事であった。
朝アパートを出て、母と手を繋ぎながら歩き、勢いよく流れる水路に架かる橋を渡って駅まで行き、同じ道を買い物袋を持って帰る。陽も延びて、家に帰ってもまだ薄明るい部屋で母が作った手料理を二人で食べた。部屋にテレビは無かったが、絵本や母の本が沢山あって、食事を終えて一緒にお風呂に入ると、寝るまでの間、いろいろな本を読み聞かせてくれた。忍がうとうとし始めると、母は穏やかに優しく抱きしめて、敷いた布団に二人で入って眠った。
同じ日々を繰り返し、友達も沢山出来た夏。
保育園の遠足があり、登園すると園長が運転するバスに乗って近くの県立自然公園へ向かった。
母は朝早く起きて、おにぎりを作り、前の日に二人で買い物をした新鮮な野菜を敷き卵焼きとウインナーを乗せた弁当箱を持たせてくれた。
園の友達とバスを降り、先生の指示に従って森の中を二列で歩く。お昼になり、園長が敷いてくれたシートにあがって、皆でお弁当を広げ食べ始めた。
お弁当の取り換えっこもして楽しい時間を過ごしてから、トイレに行きたくなって先生に連れられ友達の小陽と一緒に歩いて行く。先生よりも背の高い草むらの先に赤い屋根が見えて来た。草むらの間から白い壁のトイレが見える。
道が左に曲がり白い壁が見えなくなると、一陣の風が吹きあがり、前を歩く小陽の麦わら帽子が舞い上がった。
「あー。」小陽が声を上げて帽子を追う。先生は声に気付かずに歩いて行ってしまう。
忍も小陽と帽子を追って草むらに入ってしまった。深いと思った草むらは、入るとすぐに子共が通れるくらいの道があった。
両側に背の高い草むらが立ち並び、昼なのに薄暗い。道の先に落ちている小陽の帽子だけが浮き上がる様に見えた。先に入って行った小陽の姿はない。走って帽子を拾おうとするとまた風が吹いてさらに先へ行ってしまう。「小陽ちゃーん。」呼ぶが返事はない。後ろを見ると入って来た草むらがある。道は真っ直ぐに伸びていた。前を向いて走る。また風で帽子は先に行く。もう一度走ると帽子を手にした。安心して道を戻ろうと振り向くとそこに道は無かった。




