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朧 OBORO  作者: 悠良木慶太
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「忍。今日からここで住むんだよ~。」

言った母親の顔は優しかった。玄関から奥に畳の部屋が見える。土間から上がると台所とトイレのドアがあり、反対側に風呂が見える。小さな部屋だった。

「おばあちゃんちみたいだね。狭いけど・・・」

台所の天井からぶら下がっている照明の紐を母が引くと奥の部屋まで明るくなった。

「そうだね~。でも二人だけで暮らすにはちょうどいいよ。お母さんは、来週から駅前の病院で働くから朝一緒に保育園に行って、帰りにお迎え行くまで新しいお友達と仲良くしていてね。」

母は嬉しそうに笑いながら買い物袋を台所に置き、小さな冷蔵庫に仕舞って行く。

生まれた時から住み慣れた品川を離れて、神奈川県の南足柄市という聞いたこともない街に連れて来られ、木造アパート2階の一番奥。北側の部屋に住むという。畳の部屋に歩き窓を開けると目の前に大きな木があり、その先は薄暗い森が広がっていた。

左からは川のせせらぎの音が聞こえる。森からは(ひのき)のような香がした。

窓から顔を出して深呼吸をしてから振り返って料理をし始めた母に言う。

「うん。しーちゃんね。ここ、嫌いじゃないよ。いい臭いするし、お母さんいっぱい笑うようになったし・・・」


去年、父親が帰ってくる時はいつも怒鳴り合う声がして、枕の下に頭を入れて耳を抑えて泣いていた。大きな音がするとドアを激しく閉める音がして、静かになってから母親が泣きながら部屋に来た。ベッドの中で震えて泣いている忍を抱きしめ「ごめんね。ごめんね。」と言い続けていた。

年が明け、正月からは母の実家である小田原に滞在した。母親は度々家を空け、帰って来ると溜息ばかりついて、子供の目から見ても(やつ)れて行くのが分かった。祖母が心配して声を掛けても虚ろな表情で生気のない返事を続けていた。生活の面倒は祖母が見てくれていたが、誰も笑わず、家の中は父親が帰って来ない時の品川の家に似ていた。

三月になって梅の季節が終わる頃。

祖母に「桜を見に行こう。」と言われ、小田原城の堀を歩いている時のことだった。

明るい顔をした母が手を振って、広い堀に架かる赤い欄干(らんかん)学橋(まなびばし)を渡って来る姿が目に入った。

同じように手を振って走って行く。

祖母も後から歩いて来た。

「終わったよ。忍はお母さんの子だよ。」

抱きしめられたが「しーちゃんは前からお母さんの子だよ。」と不思議な顔をした。

祖母は「ここで暮らせばいいじゃない。みんな放棄しちゃったんだろ?」と言うが、母は「うん。もう何の未練もないの。一番大切なものだけ守れたから・・・。南足柄で小児科医の募集を見た時。そこからやり直したいな。って思ってね。近くだから、困ったらまた甘えに来るわ。」と優しく言っていた。

抱きあげられ温もりを感じながら母の涙を忍の小さな手が(ぬぐ)う。母は微笑んでいた。

堀を渡る春の風が、ほのかに甘い桜の香りを運んでいた。


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