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朧 OBORO  作者: 悠良木慶太
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JR根岸線に乗り桜木町駅で降りる。駅から少し海側へ歩くことになるはずだ。大岡川に架かる橋越しに真新しいビルが見えた。「横浜市役所新庁舎」人口約380万人を支える新しい行政庁舎である。神奈川県には横浜市のほか川崎市と相模原市が政令指定都市とされているが、東京23区を除けば全国最多の人口を誇る横浜市は別格である。

大岡川を渡り1階のエントランスホールに入る。中にはコンビニやカフェが入った商業エリアがあった。そのわきを通り3階まで吹き抜けの巨大なアトリウムに入るとガラス張りの壁から入る明るい陽の中、ピアノの生演奏が終わるところだった。エスカレーターに乗り3階に向かう。ロビーを通り市民ラウンジに入った。大岡川を挟み、みなとみらい21地区の街が展望できる。時刻は午後3時20分。指定された時刻より10分早く着いた。

大きなガラス窓に向かう。眼前にランドマークタワーを中心とした超高層ビル群が建ち並び、足元の大岡川沿いには公園が整備されていて、綺麗に刈り揃えられた芝生の広場と真夏の陽射しに負けじと濃い緑色の葉を茂らせている木々が等間隔で植えられていた。先ほど通ったときは目に入らなかった横浜の新しい景観が翔の(まなこ)に飛び込んできた。

「翔君。」後ろから声がした。振り返ると伯父と同じくらいの背丈で体の締まったスーツ姿の中年男性がにこやかに見上げていた。

「宗麟さんから連絡が来たときは感動したよ。ようやく君から会いに来てくれる時が来たんだね。僕が深山だよ。」出迎えた男は伯父の言っていた市民生活安全課の課長。深山一博その人であった。

「初めまして。青嵐学院大学附属高等学校二年の神崎翔です。」言ってお辞儀をした。

「僕からは初めましてではないんだよ。いろいろな場面で顔を合わせているよ。見覚えないかな?」と苦笑して深山は言った。

改めて深山を見る。「ハッ」とした。去年、父と祖父の法要の時に親戚関係でもないのに親しげに神崎本家の人たち、伯父や母と話していた。その前、祖父が入院していたとき毎日のようにお見舞いに来ていた。祖父の葬儀にも。もっと前、小学校に転校するときに母と一緒にいて世話をしてくれた。深い記憶の底には、病院で意識が戻り知らない大人たちからいろいろ聞かれたときにも仲裁に入って守ってくれていたのがこの人であった。

「父が亡くなってからもずっと自分たちを見守っていてくれていたんですか?」

伯父に、ある人に会うように指示されたとき、まず深山君に会いなさいと言われた。

彼は父親が亡くなった後も、神崎の家のために奔走してくれていた。母の就職、県からの捜索費用などの後片付け、翔と雫の転校手続き。すべて深山氏が手配してくれたのだ。と話してくれた。その時は見たこともない他人がそこまでするものか。と疑念を抱いていたが、確かに要所、要所でこの人は現れていた。事実であったと思わざるを得なかった。

「まあ、君のお父さんには何度も助けてもらった恩があってね。幾度も危険な目にあって困難を乗り越えてきた戦友のような仲だったんだよ。」話している深山は、まるで軍人や警察官のように姿勢が良い。立ち姿は伯父の宗麟と似た威圧感を醸し出している。

「立ち話もなんだから、静かなところに移動してゆっくり話をしよう。」そう言って、翔を誘導してロビーに戻り、「staff only」と表示のあるドアにIDカードを近づけてキーを解除した。タイルカーペットの廊下を通り奥から二番目のドアを開け中に入って行く。半透明のアクリル板で仕切られたブースの一番奥、突き当りの広い部屋へ通された。擦りガラスの高窓から陽光がゆるく入っていて、新品の家具の匂いがした。品の良い木製テーブルとゆったりとした木製の椅子があり、好きなところに座るよう言われ窓の左側に座った。次いで深山が対局側に座り備え付けの電話で二人である事を告げると、しばらくして男性の職員がコーヒーを二杯持って現れた。

「コーヒーは大丈夫だよね。」深山が言い、職員の男性から翔の前にコーヒーが置かれた。

礼を言い置かれたコーヒーを手前に引き寄せ、カップを見詰めていると深山が語りだした。

「宗麟さんからある程度の内容は聞いているよ。槍穂岳に登りたいらしいね。」

「いや、自分からすすんで行きたい訳では無く、友達が言いだしたことで・・・。」

「嫌であれば断れた。でも君は家族に相談してまで山に向かいたいと考えたわけだね。」

目の前にいるこの男性は、昔から自分のことを全て知っているのかと思った。

黎明寺で伯父との対話のあと、翔は心の壁を取り払う努力を始めている。整理はできていないが思った通りのことをこの人には話してみようと決心した。

「はい。槍穂岳の名前が出たのは偶然だと思います。その友達に父のことは詳しく話していなかったので。でもその偶然はもしかしたら必然なのかも。って。自分の空白の記憶の一端でもかいま見れないものかと。キャンプに誘われたとき、ふと、そう思ったものですから。それで伯父に相談することになって、結果として考えてもいなかった事実があったことを知りました。それまでは、父は獣の事故でやむを得ず亡くなった。だから危険な山には入らないで欲しいと家族は思っていたと。なにしろ、学校の行事ですら山に入る事を止められていましたから。」ひとしきり話して深山を見る。

深山は優しく微笑んで聞いていた。

「そうだね。お父さんの事件は僕も解明できないでいる。新井さんのことは聞いているね。あの人でさえ分らないままだった。神崎本家の史隆さんも同様に探っているのだけれど当時調べられた内容を越える事はなかった。実はね、皆つながっていて情報を共有しているのだよ。あと、君が山に入らない方が良いと言った人がいてね。今回、君が僕のところに来た理由は、その人に会うためだよね。」表情は変わらず深山は翔を見据えた。

黎明寺での対談の最後、ある人に会うように言われた。その人に会うためには深山氏に面会し、何故会わなければならないかを聞くと良い。とだけ言い、どこの誰かは教えてくれなかった。

「そうです。深山さんから会う必要がある理由を聞いてから、その人に会いに行くよう言われました。」翔も深山を真正面から見た。

深山は満足そうに微笑んで胸の前で一つ柏手を打ってから話し始めた。

「十年前、病院で君が目覚める前のことを知っているかい?この話をするためには、神崎総本家の史隆さんが帰国した時からを話さなければならない。」


七月四日早朝。神崎史隆(ふみたか)は帰国した。飛行機は予定よりも三時間遅れだった。入国の手続きをして、家族は静岡の自宅に戻ったが史隆はそのまま青嵐学院大学附属病院に向かった。深山の取り計らいで隆一の遺体は病院の霊安室で保管されていたためである。タクシーを降り病院の西棟1階、外来者用入口に入る。空港から直接来たので史隆はカジュアルシャツにジーンズの出で立ちである。エントランスホールに入ると新井と深山が迎い入れた。新井はネクタイに半袖のワイシャツ。深山はサマースーツ姿だった。右手を挙げ挨拶しながら左側のカーテンウォールに目を向ける。午後の木漏れ日の中、アイボリーで統一されたベンチソファーが並ぶ中央、一人掛けの深いソファーに足を組んで座っているサングラスをかけた女性に目を留めた。読んでいた本から目線をずらし、こちらに気付いて薄く微笑む。黒いロングヘアーの美しい少女だった。鞄に本を差し入れ立ち上がって歩き出す。黒いロングドレスを身にまとった華奢(きゃしゃ)な身体が重力を無効にするかのように軽やかに、しなやかに進んで来る。ドレスから露出している顔と腕が一際(ひときわ)白く輝いて見えた。

(ふみ)君。久しぶりね。」見上げた顔は幼さを残している。サングラスを外した黒く澄んだ瞳に史隆は吸い込まれる錯覚を覚えた。

「お久しぶりです。(かえで)さんはお変わりありませんね。」言いながら深く頭を下げた。

「隆一君のことは残念ね。翔君が助かったのが救いだけど。」(ささや)いた声は鈴の音色のような心地の良い響きだった。

秋月(あきつき)先生、こちらでしたか。」深山が言い新井とともに頭を下げた。

二十代後半の深山に、三十代中頃の新井と史隆が、一見すると高校生に見える美少女に深々とお辞儀をする光景は周囲の目を引いた。

「それで、翔君の容体は(かんば)しくないの?」首を(かし)げ上目づかいに深山に向きなおす。

神崎翔は最初に搬送された県立病院から深山の手配により、隆一のいる青嵐学院大学附属病院に移されていた。

「はい。入院して一週間になりますが、未だ昏睡状態です。隆一さんが見つかった二十九日に高熱に見舞われ呼吸困難になりICUに入りましたが、熱が冷めて呼吸器も安定しましたので昨日こちらに移動できました。脳波や臓器には異常がなく脈拍と血圧、体温、血液の数値も基準値内なのですが、発作のように突然苦しみ出したりしています。ただし、意識は戻りません。」深山が楓の正面を向き報告する。

「そう・・・、まずは隆一君に挨拶したいわ。」秋月楓は顔を下げ(つぶや)いた。

ご案内いたします。と言って新井が先導する。土曜日のため外来センターは閉まっていて入院患者来賓用受付でカードを渡され南棟地下1階の霊安保管室へ向かう。一般には使用されていない冷蔵保管室の特別区画に隆一の遺体は移されていた。ドアのセキュリティロックに新井がICカードを差して解除する。冷房の効いた部屋には(ひつぎ)が出され姿を見る事が出来るように蓋が開いている。祭壇があり、用意されていた香炉に線香を立て隆一を囲むように合掌した。

「穏やかな顔ね。少しだけ安心したわ。」隆一の頭を撫でながら楓が呟く。

「二人は今回の件に関与していないんだよな。」史隆は新井と深山を交互に見て言った。

「はい、今回は我々からの依頼ではありません。当日の朝、電話があったことは事実確認していますが、誰からの連絡なのかは判明できていません。その電話により急遽(きゅうきょ)、翔君を連れて槍穂岳に行っていますので、ご自身で予め計画していた訳では無いと思います。電話の主が依頼もしくは誘い出したのではないかと考えています。」深山が応えた。

「その、深山君が言っていた工藤という男の正体は掴めたのかい?」

「その件も不明のままです。」新井が直立のまま返事をする。

「工藤?工藤誠一のこと?」隆一の顔を覗き込んだまま楓が聞き返した。

「秋月先生。ご存じなのですか?」新井と深山が同時に言い、顔を見合わせる。

「公安の人間でしょ?たしか。表向きは。」うつむいていた身体を翻し楓が話した。

たおやかな身のこなしと涼しげな声音が幽玄へといざない、遺体を目の前にしているという現実を忘却の彼方へ運び去ってしまう。

「表向き?」我に返り新井が話す。

「私の上席、県警本部長にも正確な情報は伝えられていなかったので、極秘任務の部署であるとは思っていたのですが。まさか秋月先生がご存じとは。」

「う~ん。警察の内部組織は興味無いから詳しくは知らないけど、新井君の前の前の監理官よ。先代から聞いていなかった?今の本部長はただの移動して来たぼんぼんキャリアだから教えてもらえないだけじゃないの?私も面識ないし。」悪戯っぽく返した。

「先代の佐竹さんが亡くなられてから自分が静岡から呼ばれて後を引き継いでいます。直接お会いしたことは無かったので。」楓から目線を外し新井が応える。

「そうだっけ。佐竹君は短かったからね。工藤君は割とこの県の担当長かったわよ。そのあと本庁っていうの?警察庁に戻っているはずだけど。何か難しい名前の部署を言っていたけど忘れちゃった。表に出るときは公安を名乗ると都合が良いとも言っていたから。そう・・・、彼が最期を見てくれたのね。隆一君には幸いだった。そうであるなら、隆一君を呼び出したのは工藤君ではないと思うわ。」

言い終わると棺に向かい直し、隆一の頭を撫で、「よかったね。」と小さく囁いた。

「私の先輩という事ですか。では対策本部の幹部組織か内閣官房が動いていたという事になりますが。」姿勢を崩さず新井は楓の背中に向かって言う。

「だから、貴方達の組織には興味ないから知らないわよ。」

振り返り、新井をからかっているかのように両手を開きながら言った。

「工藤君は君の先輩は正解。さっき言った通りよ。隆一君がこの県での協力要請を受けた時、彼が結婚する前になるから十二年くらい前かな。そのときの神奈川方面の対策監理官が工藤君。まだ行政側の連携が出来てなくて深山君みたいな担当はいなかった。と、思うな。隆一君と工藤君は仲良かったわよ。兄弟みたいに。」

隆一に向き直し頬を触り「ね。」と言う。

「隆一さんは全く話されなかったものですから。」新井は言い、史隆と深山を見た。二人とも頷いていた。

「守秘義務でしょ。お互いに詮索しないルール。史君にも話さなかったのは新井君みたいに共通の監理官ではなかった事が大きいと思うな。」隆一の胸元を診ながら言った。

「この傷・・・。」胸の傷はエバーミングでも隠し切れなかった。新井が佐渡博士の検死内容を言おうとしたのを手で制し、楓は何も言わず隆一の襟と前髪を整えて振り返った。

「翔君のところに行きましょう。」


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