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翔たちの乗ったバスは、国道に入ると緩い下りの道が続いていた。左手は谷になっており、車窓からは木々に覆われた川が見えた。くすんだ青と白の羽をした小鳥がさえずり、木々の間を飛び交っている。停車予定のバス停に人影はなく、降車する人もないためバスは車の流れに沿って進んでいた。運転手が「右に曲がります。ご注意ください。」とアナウンスをして「寄入口」の信号を右折する。聡史が遠心力のままに寄りかかってきた。首を右に傾けるとキャップを浅くかぶりながら熟睡している姿があった。国道を離れると両サイドに観光客目当ての料理屋が数件、開店の準備のために従業員が旗を立て、駐車場のチェーンを外そうとしていた。団子屋の角を左折するとバスロータリーがあり、先行のバスが一台止まっていて、そのバスの後ろに停車するとドアが開いた。車内に熱風が吹き込む。「時間調整のため少々停車いたします。」と伝えられると、降車口からスーツ姿の男性が一人、運転手と何か会話をして降りて行った。乗車口からは額の汗をぬぐいながら中年の夫婦が入り、運転席側の一人席にそれぞれ腰を下ろした。次いで小学生くらいの男の子とおそらくその母親が乗り込んできて、翔たちの前の二人掛けシートに座った。皆ハイカーの格好をしている。槍穂岳は丹沢山系でも二番目に高い山だが、中腹にある槍穂神社までは道路も整備されていて参拝者用の駐車場まである。鳥居前には休憩施設や飲食店が軒を連ねて小さな街を形成している。バス停の登山口からはいくつかのルートがあるが、一番人気は神社への参道ルートで、四年前に整備が終わり照明の付いたコンクリート舗装の杉並木と沿道に植えられた紫陽花を見ながら歩いて一時間程度で安全に槍穂神社の鳥居前に到着することができる。
先行のバスが右にウインカーをだして出発した。折り返して駅に戻るようである。
開いていたドアが閉まり、再び冷気が車内を満たした。「発車します」運転手のアナウンスが流れ、ゆっくりとロータリーを旋回し、もとの県道に入る。
寝息を立てていた聡史が手で顔を擦りながら車窓を眺める。
「どこ?」かすれた声で聞いてきた。
「寄入り口のバスロータリー。あと15分くらいで着くと思う。そんなんで大丈夫なのかよ。」あきれた表情で聡史を見る。ああ。と言ってまた寝息をたてていた。
車内の運行掲示板ではここから終点までの停留場は二か所。山道に入るようだ。
伯父との話し合いを終えた翌日の月曜日。翔は聡史に家族から登山の許可が出たことを告げた。二人は更衣室で制服を脱ぎ体育着に着替えながら話していた。期末試験終了後、採点期間に行われる校内球技大会のクラス代表バスケットボールチームに選ばれたためだ。
180センチメートルを優に超える翔と聡史は部活動には参加していなかったが随時バスケ部から勧誘され続けている。中学から附属校に入学してきた聡史とは気が合い、中学時代は二人ともバスケ部に所属していて県大会ベスト8まで勝ち上がった経験があるが聡史が交通事故で腰を痛め、ほぼ同時期に翔が左肩肩甲骨の違和感にみまわれ、高校からは入部せずにいた。昨年は違うクラスだったが、三日間に渡る全学年対抗のトーナメント戦で1年生のクラスが準決勝まで進んだのは翔と聡史がいたクラスだった。結果は三年のバスケ部レギュラーがいた二つのクラスにそれぞれ負けたが得点王には翔が輝いた。今年は二人が同じクラスの上、バスケ部のレギュラーに入っている真崎慎也もいる。誰もが優勝を疑っていない。
青嵐学院大学附属高等学校では所謂スポーツ推薦入学は行っていない。過去にはサッカー部が奇跡の全国優勝を果たしたことがあったがその後、際立ったスポーツでの実績は上げていない。それでも各競技の成績は県内では決して弱くはなかった。年中行事の校内球技大会とはいえ皆本気なのである。
「それで、予定はどう組むの?」翔は先に着替え、ロッカーを閉めて聡史に向き直る。
聡史は椅子に腰かけてソックスを履き直していた。上半身裸である。
「ノープラン。これから熟慮してだなあ・・・。必要な道具の調達やいくつもあるルートのどれを行くかが問題なんだよな。予算はどのくらいまでいける?」聡史のノープランは今に始まったことではない。企画は立てるが、大抵の事は最終的に翔に丸投げが決まりである。
「そんなことだとは思っていたけどな。一応、正規のルートを安全に行くのが許可の条件だよ。獣道探検トレッキングコースとかは絶対NGだからな。」
目を輝かせた聡史に翔が左手の人差し指一本で額を抑える。
「翔君!それ採用!やっぱさあ、若気の至りって大事だよな。」翔の指を頭突きの要領で弾き返しながら立ち上がり腰にテーピングをし始める。
「まだ痛むのか?」テーピングを手伝いながら聞いた。
「お守りだよ。勉強のし過ぎで猫背になりがちだからな。」Tシャツを着て、みぞおちを手で叩きながら聡史は応えた。背は翔よりも少し高い。
「それにしても和尚の伯父さんはともかく、よくお母さんや雫のお姉さまがOKしたな。一緒に行くとか言い出ださなかったのか?俺は雫さんに来てもらうのは非常に、大いに、大歓迎だけどな・・・。雫さん来るんだったら・・・海だよなあ。」
翔に対して過保護なのは母親ではなく、姉の雫であることは周知の事実である。
雫は身長が162センチメートルでスタイルもよい。目鼻も整っていて異性だけでなく同性からもかなりの人気を誇っていた。
聡史は家に遊びに来ても何かと雫について回り、翔よりも雫と話をしたがった。
「だから!普通は海だろ。」心の叫びが漏れた。
「海にするか。雫さんを呼べよな。」聡史の優柔不断が炸裂する。いや、欲望が全開である。
「いや・・・、それでは昨日の俺の努力が報われない。」天を仰いで翔が言う。
「そうか?んじゃ山行ってから後半は海行こうぜ!雫さんと!」聡史が何を想像しているか一目瞭然だった。『直接誘ってみろよ!』いつか言ってやろうと思った。そして「海」なら家族は反対しない事に聡史が気付く時が来るのだろうかとも考えた。
「バスケットボール、二年七組と一年二組の選手は中庭Bコートに集合してください。」
校内アナウンスがスピーカーから流れた。
「さて、スターの登場と行こうぜ!一年坊に格の違いってやつをお見せいたしませう。」
『やる気満々かよ』聡史のポジティブ思考には翔にとって救われる事は多いが、いかんせん度が過ぎるところがある。
「球技大会が終わったらこの件で相談したい人がいる。その人に会ってからの計画で良いかい?」翔が言うと聡史は「はいはい。よろしく。」と言ってさっさと中庭に向かってしまった。やれやれと思いながら聡史が忘れていったゼッケンを持って更衣室を出た。
試合は圧倒的だった。聡史がセンターで高さを制し、ポイントガードに入った翔がゲームを支配する。部活でも二年生ながらフォワードをはる慎也が面白いように点を入れて行った。組織立ったチームプレーを完璧にこなす。この三人だけで十分だった。素人チームでは相手できる隙もない。慎也が部に入れよと何度も、何度も言っていた。
こうして最終日まで勝ち続け信也以外のレギュラーがいる三年のチームにも完勝してしまった。バスケ部顧問の小泉が改めて翔と聡史に入部を勧めたが最初に断ったのは聡史だった。やはり腰に負担がかかっていたようで、表彰式が終わると左足を引きずっていた。
木曜日。午前中の授業で追試も補修もないことを告げられ、聡史は足を引きずりながら喜んでいた。他のクラスの生徒たちも入り混じって集まり「万歳!万歳!」と何かの祭りのようにはしゃいでいる。ムードメーカーでもある聡史には人を引き付ける魅力があり、常に皆の中心にいた。
「翔君も大丈夫なんでしょ。」机に向かってタブレットのメールを読んでいた翔に、隣のクラスの森澤美鈴が顔を覗きこみながら聞いてきた。美鈴の姉の麗香は雫と同学年で青嵐学院大学に進学している。三つ上なので大学二年生である。雫と麗香、そしてもう一人、水橋寛美が高校在学中から三女神と謳われていて、翔たちの世代にも伝説の存在になっていた。そして三人ともが親友である。附属小学校に転校してきた雫を最初に支えて、心を開かせてくれたのが麗香と寛美の二人であり、翔の面倒もよく見てくれていた。その頃からの幼馴染が美鈴であり、美鈴も当然のように美少女である。
「うん。当然。古文がすれすれだったけどね。美鈴は?」顔を上げると目の前に美鈴の顔があった。教室の入口にいた女子たちが「チューしてる!」と騒ぎ立てた。「してない!」美鈴が慌てて訂正しに行く。この騒ぎで翔の質問はかき消された。再びメールに目を戻す。これから会いに行く人との待ち合わせの指定場所と時間が書かれていた。