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新井の発言はある意味納得できた。謎は謎のままとして客観的に映像と状況説明を照らし合わせると、まさに人智を超えた得体のしれないものに隆一は殺害されたのであろう。この国に存在する「法律」はすべて人間の行為又はその個人に対して課せられるものである。人外の獣や天候などは対象外であり、人に害をなす獣は「害獣」というレッテルを貼られ「処分」されてしまう。彼らには弁解や抗議する権利すら与えられていない。まさに人間こそが「神」になり替わってこの世を支配しているかのような世界観なのだ。しかし、「人間」の支配領域をはるかに超える本物の「神」に等しい力が働いた場合何をどう扱うのか。地震や台風に罰則は与えられない。「法律」は常に、人間の間でさえも、より力のないものに対して発動するのが実情だ。決して弱者の味方になどなったためしはない。しかし、それよりも上位の存在に対しては無力である。
「しかし、何の捜査もせずに幕引きと言われても。これを見せられてしまっては。少なくとも隆一が槍穂岳に向かった理由。二人が発見されるまでの間の動向。工藤が捜索に現れ何故他者に触らせなかったのか。この三つの疑問を解消する事はできないのでしょうか。」
核心である。宗麟も含め誰もが終始疑問として残っていることを言った。
「申し訳ありません。私も同様の問題点をくまなく追ったのですが何一つ判明いたしません。工藤についても公安部のどこに配置されているのか私の上席にも調べられませんでした。しかし、本部長に対して国家公安委員会からの直通で指令が出されていましたので身分は本物です。同行の鑑識係からの必要情報も警察庁経由で提供されています。」
「ということは、隆一君の件は国家的な事件であったというのでしょうか。」宗蓮が言う。
「もう、本当のことを言ってくれませんか。あなた方がここまで調べて私どもに伝えてくれる意味を、隆一君との関係を。」
新井も深山も言葉が詰まってしまった。
「それにしても、隠蔽するにはあまりにも脇が甘くないですか?本当に何かを隠したいのであれば、すべて自前の組織が動くはずでしょう。映像班を同行させて工藤本人の顔までさらし、搬送を消防のヘリに依頼するなど、まるでヒントを残しているみたいで。しかも司法解剖を新井さんと面識がある佐渡博士に依頼するなんて。」
宗麟の問いに新井が反応した。
「そこなのです。私が工藤の立場で『上』からの指示で隠蔽をするのであれば。勿論、何のために隠蔽する必要があったかは定かではありませんが、私ならすべて統括できる範疇で、しかも彼の行動を追っていた、あるいは協力状態にあったのであれば、捜索願が出る前に探し出しているはずですし、翔君の同行は絶対に許さない。工藤は私たちに何かを残している。私にはここからはお前が明らかにしろと言われている気がするのです。」
はじめて新井は感情をあらわにした。
この部屋に入ってはじめて空調機の風音が耳に入る。
「わかりました。」宗蓮がゆっくりと、穏やかに語りだした。
「先ほどの、私の問いはしばらく新井さんにお預けするとしましょう。今、言っていただいたことは今後明らかにする努力はしていただけると解釈してもよろしいかな。」
「はい。」新井が力強く答えた。
「ところで、この件について隆一君の肉親、弟の史隆君には知らせる必要があるのではないかな。弥生の話だと隆一君同様連絡が取れていないようですが。」
隆一には弟の史隆が静岡県の実家にいる。両親はすでに他界して直接の親族は弟のみであった。神崎家は静岡、神奈川に数軒の親戚、分家があり隆一は総本家の跡取りのはずであったが、家業である果樹園と茶畑の管理は史隆が仕切っていた。隆一たちが行方不明になったとき最初に連絡したのが静岡の実家であったが、従業員が電話に出て史隆は不在であり、隆一たちも来ていないと言われていたのである。
「史隆様はご承諾済みです。」深山が発言した。
「ご家族連れでインドに滞在中でしたので、事情をご説明してもうすぐ帰国する予定です。大変驚かれていましたが、なにぶんインド国内でもかなりの地方とのことで。帰路の手配は私が行いました。明後日、七月四日未明の便で成田に到着するはずです。」
「隆一君だけではなく史隆君まで掌握していたのですか。いったい神崎の家とあなたたちはどのように関係していたのか・・・。それもお預けですかな。」和やかに話しながら宗蓮は弥生を見る。うつむき、ただ虚空を見つめている娘の姿があった。
「史隆君が明後日戻られるのであれば葬儀などはそれからということで、隆一君は引き渡していただけるということでよろしいかな。」
「はい。」新井も弥生を見つめながら宗蓮の問いに答えた。
「と、いう事があったのだよ。」長い話しを終え、宗麟は翔を見上げた。
「分らない事ばかりですよね。父は何故僕を連れて山に入ったのでしょうか?それに山中での時間の経過が長すぎませんか?自分がどうして生きていたのか理解できません。それにその公安の工藤って人、探し出せないものでしょうか。その人に呼び出されたって思うのが普通ですよね。それから史隆叔父さんも納得したってことですか。」翔は目の前の伯父に言うでもなしに話し続けた。
「県警の新井さんや市役所の深山さんを知っていて、今まで僕に隠していたのは何故ですか?自分がこの件を調べたいと言ったときに教えてくれれば良かったのに。」
「新井さんはこの件の後、三年ほどで警察庁に移動されて存在が消えたよ。三年間はいろいろと探ってくれたのだけれど結果は出なかった。移動する直前、頭を下げにここに来てくれたんだ。もしかしたら工藤と同様に公安に配属されてしまったのかもしれない。深山君は今も市役所にいて課長に昇進している。連絡が取れるのは深山君だけになってしまった。神崎本家の史隆君はもちろん納得してこの件をおさめている。より詳しいことは彼の方が知っているとは思うけど、やはり教えてはくれなかったな。ただ、史隆君もなぜ山に入ったかは分からないという。彼らとも相談して君にはある程度時間が経ってから話そうと決めたんだよ。お母さんの心の回復を待ってからね。」伯父の声が優しく響いた。
「ただね、この間にも我々に何か圧力のようなものは一切かかっていない。あくまでも表向きの捜査結果に協力してきただけのことなんだよ。深山君も彼のできる範囲で探ってくれたし、その事に対して県や国から制限は受けていない。それでも何も出てこなかったな。」
宗麟は、言い終わると上を向き天井の曼荼羅を見詰めた。
豪雨が雨戸をたたき震えていた。雷鳴も轟いている。本堂に入って初めて周囲の音が耳に入った。どれくらい時間が経ったのか分らなかった。
「さて、これを知ったうえで、槍穂岳に向かうかい?」伯父が悪戯っぽく言い放った。
「行っても良いんですか?」意外な言葉に驚いた。
「あの事件の後は槍穂岳に関しては大きな事故はない。まあ、山中での滑落や遭難は平均的に起こっているから決して簡単な山ではないのだけど、君たちの事故のあとY.PACが巨額投資をしてね。県の指導で山岳ルートの整備を見直している。昨今のブームもあり、登山道を歩けば人も多くいるし、随所に山小屋もあるから特に危険視する必要はないとは思うけどね。お父さんの十周忌も終えたことだし、お母さんもある程度は理解できるのではないかな。」父の十周忌は昨年祖父の三回忌と同日に黎明寺で法要を済ませていた。
神崎家の菩提寺は静岡にあり遺骨はそちらに埋葬しているのだが、同じ宗派であり菩提寺の住職、神崎本家の同意もあって葬儀を含めた法要は黎明寺で行っていた。
伯父の話は、登山ルートを歩く分には問題ないから安全に楽しみなさいとも取れる。
しかし、この話を聞いた翔には「謎を解きたい」という欲望が芽生えていた。
「いつから行く予定なんだい?」伯父の問いに許可が出ると思ってなく未定であることを告げると、ある人に会ってみなさいと言われた。
伯父と一緒にご本尊に拝礼し、住屋に戻ると居間でテレビゲームを楽しんでいる女性陣があった。翔は部屋に入るとぐったりと肩を落とした。
「翔!あきらめた?」作務衣姿の雫がテレビの前で変なポーズをしながら言い放った。
「おう。OKがでたぜ。」翔が返した途端バランスをくずしてソファーにダイブする。
「はあ?伯父さん何してくれてんのよ。」雫は容赦なかった。
「まあまあ。お母さんも承知の事だからさ。」伯父の顔のまま、宗麟住職が優しく応えた。
慌てて母親を凝視すると、母は微笑んで返事をした。伯母の妙子と祖母に目が泳ぐ。どちらも母と同じように微笑み返している。
「ちょっと。私だけ除け者扱い?どういうことよ。翔のこと伯父さんに止めてもらおうと思って意気揚々と来た私は何のピエロよ!私はペニーワイズ?」普段の雫を知る、この場にいる誰もが『こんなに早くしゃべることもあるのか』と思った。
「ペニーワイズは殺人ピエロの化け物だろ」翔が言った途端。
「はあ?揚げ足捕ってんじゃないわよ。翔!殺されたいの?」
『あ、ペニーワイズだ』と思ったが、姉のキレかたは冗談などではない。
落ち着かせようとして、改めて宗麟がかいつまんで説明する。うん、うんと聞いてはいたが釈然としない内容に再び沸騰寸前だ。
「今までの事は嘘だったのね。しかも、何も解決していない。史隆叔父さんは何で何も教えてくれないの?どうして殺人事件を隠蔽したの?お父さんって何者だったのよ?スパイとか?・・・まさか、英ちゃんや俊も知っていたの?」雫の問いに、英幸や俊之も知っていると答えると、雫はフリーズしてしまった。わなわなと唇を震わせて涙をためている。
「雫や翔には直接すぎてショックが大きいと判断したのさ。うちの子たちにも教えたのはこの前の法要のときだからそんなに時間的な差はないよ。お母さんだって未だに傷が癒えてはいないんだ。君たちがいるから気丈にしているけどね。」宗麟の言葉に弥生の目にも涙が浮かんでいる。母の姿を見て雫は落ち着きを取り戻し、抱き合って泣いた。
雫も翔も「親が熊に襲われた子供」と陰口を言われ、挙句は「父親が息子を連れて無理心中を図った問題のある家の子」などと根も葉もない噂を流されて学校中から孤立して、小学校を登校拒否になった過去がある。そのためしばらくの間この黎明寺で過ごしていた。亡くなった祖父の宗蓮や伯父の宗麟が父親代わりをしてくれて、寺では英幸や俊之もいて楽しく過ごし、寺の檀家たちのやさしさに触れているうちに心が癒えた。母が青嵐大病院の看護師として就職することを契機に横浜に戻り同時に青嵐学院大学附属小学校へ編入した。転校先では事件を知られても騒ぐ同級生はなく、むしろ傷を負った仲間として歓迎されて過ごした。大学生になった雫には親友と呼べる仲間がいて現在の生活は充実している。しかし、過去に負った傷は不意に疼くことがある。その疼きの原因である父親の死因が誤っているのであれば、正したい気持ちは膨れあがってきていた。
雫の様子を見て宗麟は話し出した。
「隆一は、君たちのお父さんは生前立派な仕事をいくつもしていたんだ。大人の事情で真実は隠すことにはなったけれど。二人とも安易に事件を探ろうとしてはいけないよ。警察でさえ突き止められなかった事だからね。翔が同級生と行く登山に関しては、きちんとルールに従ってキャンプをすることを条件に同意しただけだからね。」そして、話した以上今後は皆で事件の真相は究明すると約束した。
何気に窓の外に目を移した妙子が「雨、上がったみたい」と言った。雷鳴轟く嵐で暗かった空が開け、雲の隙間から山々に陽光が差し込んでいた。
伯母が除湿してくれたおかげで乾いた服に着替えられたが靴はずぶ濡れのままだった。
玄関を出ると山門から東の空に虹がかかっているのが見え、豪雨に打ちひしがれてもなお首を上に保っている薄紫色の紫陽花に陽が当たり水滴を反射させて輝いている。
駐車場まで見送りに来てくれた伯父たちと挨拶を済ますと、祖母が気を付けて帰るようにと言いながら雫に飴玉を渡していた。帰路は所どころで規制を解除している係員たちを横目に見ながら横浜まで帰って来たのだった。