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神奈川県で狩猟が許されるのは十一月中旬から年をまたいで二月中旬までとなる。十年前の冬、丹沢は東西とも誰が山に入っても全く動物が見れなかった、大型の獣は勿論、中型から小型に至るまで生き物の姿が見られなくなってしまっていた。ハンターたちは他の猟区に移り、ハイカー以外で丹沢山地に入る人は少なくなってきていた。この年、大型動物の気配がなく雪も少なかったにもかかわらず、例年に比べ遭難者が多く、行方不明になる人が後を絶たなかった。
神奈川県と国土交通省は区域により捜索隊を組織することになり登山道の侵入を一時禁止にしたり、注意書きのプレートを至る所に掲示していた。行方不明者は六月までに八名にのぼり、麓の町まで含めると十五名がその年に消息を絶ち、未だに発見されていない。この傾向は、神崎隆一の遺体が発見された日まで続いていた。不思議とその日を境に遭難事故は平年数に落ち着き、行方不明者は出なくなった。
その年の夏以降、動物たちの目撃例も元に戻り、十年後の今年も同様に大小の動物に出会うことが出来ている。丹沢山地は標高1000メートルを超える山が連なるので決して簡単な山ではないが登山道も整備されルートを外れさえしなければ遭難の危険はとても低くなった。ベテランに好まれるような沢登りやロッククライミングが出来るルートもあるので滑落の危険はつきものであるが、自身の能力に応じてファミリーや高齢者からアスリートまで楽しめ、人気の大山や丹沢山など景色を楽しめる魅力的な山は多い。
十年前の六月。小屋の修繕と山菜の採取のために槍穂岳登山口まで来たところ駐車場にテントが設営されて捜索隊本部が置かれていた。山に入る目的を伝えていると、知り合いの消防隊員がいて本部の幹部に脊山は山に詳しい事を説明すると、捜索の協力を要請され、乗って来た軽トラックを誘導された路肩に止めるよう指示された。捜索本部の連絡先を伝えられ、その日の捜索ボランティアが入っているルートを聞くと前日までの捜索活動内容の説明には西ルート1キロメートル付近で警察犬が行方を失ってしまっていると告げられ、登山道の無い巳葺山は二次遭難の危険があるため手薄である事が分かり、小屋があるので巳葺山への道を捜索すると言って単身入山した。
北西ルートは玄倉川源流を目指す登山道になるが、脊山が歩く道は原生林が多く、特殊な獣道のような古道であり、かつての「山の民」だけに伝承される道であった。
数日前までの長雨で路面が緩く崩落している斜面を藪漕ぎして進んで行く。昼を過ぎた頃、山住用の小屋が見えて来た。十日前に仲間たちと訪れた時には何事もなかったのが周囲には細かい枝や虫の死骸が散乱していた。
夕立でもあったのかと思いながら小屋から熊手を出してかき集め、堆肥箱へ入れていく。
小屋に入り昼食を取り始めた頃だった。
地鳴りがしたと思うと激しく地面が揺れた。直感で南方向に異変、何かが、爆発するような事が起きていると思い装備を整えて小屋を出る。
森の中を正確に南に歩き続け、半時程行ったところで若木の割れる臭いが立ち込めて来た。臭気の強くなる方へ歩くと真上から日が差す空間が見えて来た。
更に近づく。20メートルくらいの長さで木々が一列に倒れていた。
脊山は最初、隕石でも降って来たのかと思っていた。なぎ倒されている木々の間に踏み入れた瞬間。人が木に引っ掛かっているのが分かった。
人が掛かっている木は後方に傾き、太い根が上を向いている。近寄って姿を確認すると登山口の捜索本部で聞いた遭難者の特徴と重なる。木によじ登り声を掛けるが返事は無く、左腕は関節が逆に向いているのが見えた。服が破け酷い怪我をしている。木の上なので自由が効かず触れることが出来る足を揺するが反応は無く、まだ温かかった。表情は目を閉じ眠っているかのように安らかな顔をしていた。木を降り携帯電話を取り出す。電波が通じるところを探しアンテナのマークが見えたので本部へ連絡を入れ、GPSの座標を伝える。応援のボランティアと医師が到着するまでの一時間、周囲をくまなく見て回る。突如振動があり何かの雄叫びを聞き、振り向くと被害者の反対方向に巨大な獣の姿が見えた。身構えて腰の鉈を引き抜く。
目で追いながら自分の立ち位置を有利になる方向へ移動しようとした刹那。
獣と思っていた物が黒い煙を上げ、小型の古墳のような大きさの土くれに代わって行くのが見えた。
額から伝う汗を拭い、鉈を逆手に持ち替えて近づく。近づくにつれ土くれの大きさは減って行き、目の前まで来た時には硫黄のような臭いとヘドロのような黒いドロドロした液体が地面に広がっているだけになっていた。触る気にはなれず呆然として見ていると液体は堆積した腐葉土の中に消えて行ってしまった。
何かの錯覚と自分に言い聞かせて倒れている木にへたり込んでいると遠くで声がするのが聞こえた。声の方向へ歩き姿が見えると手を振って応えた。