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足元の笹が深くなり始め階段がさらに急になる。二人は無言で登り続け、吸った空気を上手く吐けなくなり自然と顎が上がる。額の汗が眼に入り景色が歪み始めた。
翔が聡史に声を掛ける。
「少し足止めよう!」
聡史は従った。手の届く所にある木を掴み肩で息をしながら中腰で休んだ。
暫くは動けなかったが汗が引き始めると呼吸が落ち着いてくる。視界が戻ると周囲の音が耳に入って来た。人が話す声が聞こえる。上を向くと崖の終わりが見えた。
「お。もう少しだったのか。翔、大丈夫か?あと10メートルも登れば到着するぞ。」
「ああ。体力に自信あっても、まだ一日目なのにペース上げ過ぎたかも。」
二人とも同時に腕時計を見る13時23分。沢で休憩したにもかかわらず崖路ルートの目安よりも早い。
「ちょっと頑張りすぎたな。もうひと頑張りだから行くか。上でゆっくりしようぜ。」
聡史が言い、階段を登り始める。
翔も歩き出そうとした時、左の耳に耳鳴りがした。一瞬だったがかなり大きく感じたので耳を押さえる。高度による気圧の変化かと思い耳抜きをすると違和感はなくなった。
心配した聡史が声を掛けると「大丈夫。ちょっと耳鳴りしただけ。」と言って手を振り歩き出した。
奥宮の到着地にはコンクリートで保護された五段の階段とアルミの手摺が整備されていて、そこまで登ると全景が眼に入って来た。石造りの鳥居が社の四方を囲みそれぞれ注連縄が架かっている。鳥居のそれぞれに方位を示す札と小さな賽銭箱が置かれ参拝者は四方から拝むことが出来る仕組みになっていた。社を中心に半径10メートルくらいの平場と円形の広場に三人掛けのベンチが八つある。登山客は四人組のパーティーと二人組の女性がそれぞれ腰かけている。二人は挨拶して空いている席に座り、リュックを下ろした。
「っだぁ~。なんとか登って来たな。さすがに暫くは動きたくね~な。」
聡史が三人掛けのベンチを一人で使い横になってこぼした。様子を見ながら翔はリュックを開け残りの弁当を出す。包みを二つベンチの端に置き足を投げ出して脹脛をもみ始めた。自分たちが登って来た方角。東から風がそよぎ汗ばんだ体を冷やす。
「明日は筋肉痛で歩けないかもな。」
翔が言うのを聡史は体を起こして「だな。」と同意して、弁当の包みを指差し「どっち?」と言った。
翔が聡史のぶんを手渡し、二人で包みを開けて手を合わせ食べ始める。内容は鳥居前町で食べたものと同じだが、気のせいか塩分濃度が高く、疲れた体にはぴったりな味付けだった。
「雫さんが順番言ってたけど、味付け変えてくれてたんだな。」
聡史は相変わらず「旨い旨い」と言っていたが、翔が感じていた事を言ってくれたので、改めて雫に感謝する気持ちを持った。・・・のだが。
「俺もねーちゃんに感心するところだったけど、ねーちゃんのバックにいる寛美さんの力に違いない。」
「お前、まだ反抗期か?素直に感謝しろよ。っていうか、お前の寛美さん信仰には過ぎるところがある。気持ちは分かるけどそのうち、寛美さんに言われたらやべー壺とか買っちゃうんじゃねーの?」
聡史は茶化して言っているが、翔は「買うかも」と真面目に思っている。
時計は13時47分。ここから西の尾根道に入り2時間程歩けば一日目の目的地である「簑沢峠ロッジ」予定通りの登山が見えてきている。
空を見る。広場の真上に太陽が輝き雲一つない晴天が肌を焦がす。気温計は無いがおそらく20℃は切っていてミドルのフリースジャケットを着て丁度良い。
食事を終え、立ち上がると奥宮の社で参拝し、どうやって工事したのか分からないが水洗のトイレがあり使わせてもらう。北側には立水栓があり「地下水を汲み上げています」と注意書きがある。空になった水筒を漱ぎ、水を入れる。
「この設備もここ十年でY.PACが整備したらしいな。」聡史がトイレの横にある看板を見て言う。翔は、自分の父親の事故以来、Y.PACが巨額の資産を投じて整備工事をしたと言った伯父の言葉を思い出した。
時刻は14時を迎えた。トイレ横の募金箱に目安の小銭を差し入れ、リュックを背負う。
「よし、ラストスパート行こうか。」聡史が号令をかける。
社から北西に道があり、四方に分かれ道が現れた。大きな案内表示板があり、真っ直ぐに進むと槍穂岳山頂への階段。東は迂回して神社の境内へ帰る下りの道。北東の道は檜洞丸方向への登山道とある。翔達が予定している簑沢峠へは南西への尾根道を行くことになる。一緒に休憩していた女性達は山頂に向かい、ベテランらしき四人組は北東ルートに進むと言う。皆で挨拶しお互いの安全を願い、それぞれ歩き出した。
南東ルートは緩い下りで始まる。今まで上を向いていた視線が変わり、裾野を左右に曲がりながら下り、林の間を真っ直ぐな一本の道が西へ抜けるのが一目で見える。強い光に照らされた緑色の斜面が心を洗う。
「これよ。この風景が見たかったんだよ。やっと目的のハイキングになった。今までのは、どっちかっていうとクライミング的な感じだったもんな。」
聡史の声が弾んだ。時間的な余裕はたっぷりある。天候も崩れる要素は見出せない。二人はゆっくりと散策しながら歩いて行った。
下り切ったところから林に向かって真っすぐに走る一本道を進む。この道をただただ歩けば目的地のはずで気も緩んできた。
「やっと初心者向けルートって感じだな。天気もいいしロッジでゆっくり休ませてもらおう。いろいろ写真も撮れたし。ねーちゃん達に安全な報告入れといた方が良いしな。今日だけでもかなり報告する事ある。感動を忘れる前に記録したい。」
翔がテンション高くしゃべるのを満足そうに聞いていた聡史が口を開ける。
「えっ?写真撮ってたの?いつだよ。」
一緒にいてカメラを構えている姿は見覚えがない。翔がショルダーストラップについているGoProを指差した。
「あのさぁ。気付けよ。お前の痴態もきちんと記録してるからな。写真や動画。帰ったら編集して皆に報告するんだからさ。」
翔が笑いながら話す。
「お前ん家って裕福だったのか?なんか置いてけ堀な気分。」聡史がこぼす。
「いや。これは旗柳先輩から借りたんだ。山登るって言ったらこれ持っていけよ。って。使い方や後で編集するときのための扱い方も教えてくれた。因みにホルダーは森村先輩がくれた。」
翔は自然に言うが、聡史は足を止め、真面目な顔で翔に向かってきた。
「お前さぁ、普通に言っているけど、旗柳、森村っていったらうちの学院グループのスーパースターだぞ。寛美さんや麗香さんの彼氏としてもあの二人だから誰も文句言えないんだからな。どこまで恵まれた環境で生活してんだよ。大学入学したら絶対合コンお願いしろよな。どこまでも付いて行くからよ。」
右手の親指を上げ、これ以上にないくらいの笑顔で翔に言う。
『あの人達って合コンする必要あるのかな?』聡史には言わずに苦笑いだけした。