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汗も引き、腰かけた姿勢で足のストレッチをしていると、途中で追い抜いて来た同じバスの親子が上がって来た。母親は疲れているようだったが、男の子は元気で、踊り場に舞い降りて来た一羽の蝶を眺めていた。暫く桜の木の周りをふわふわと舞っていたがすーっと翔の左肩にとまった。周りにいた人たちも「わー」と歓声を上げる。しばらくの間、翔の肩で羽を開閉して休んでいたが、またふわりと祠の方へ舞い上がり桜の木を回ってから山の中へ消えていった。
蝶は羽の前側が黒で、後ろの羽は茶褐色がベースになっていて、黒い翅脈に半透明の浅葱色の美しい斑模様が入っていた。
男の子が「何て言う蝶?」と母親に言ったが母親は「何て言うのかしらね。青いアゲハ蝶かな。帰ってから調べてみようね。」と言っているのを見て、二人は立ち上がり、席を譲ってから、翔が口を開いた。
「アサギマダラっていうんですよ。ここが標高の高い山地の証拠で、秋には台湾みたいな温かい地方に何百キロも飛び、海を渡る個体もいる蝶です。」
男の子がベンチに腰掛けて足をぶらぶらしながら母親のスマホを借りて調べてみる。
「本当だ!綺麗な蝶々だよね。ここは紫陽花しか花咲いていないのに飛んで来たんだね。」
翔に聞きにきたので、しゃがんで目線を合わせてから森を指差して話す。
「あそこに赤紫のアザミが咲いているでしょ。その下にちょこちょこ咲き始めているのがフジバカマっていう花。両方ともキク科の植物なんだ。アサギマダラはキク科の花が好きなんだよ。」
男の子は目を丸くして聞いている。様子を見ていた母親が翔にお礼を言う。
「ありがとうございます。詳しいんですね。」
「いや、この山に登る前、ガイドブックやネットで調べた内容です。山の生態系に興味があるものですから。」
山に入れなかった翔は小さなころから「山」そのものに憧れを持っていた。童話や小説の世界と同等に「山」は異世界の存在だった。触れる事が出来ない分「知識」として貪欲に情報を吸収していた。自然科学をはじめ、翔が理系科目に強いのもこうしたコンプレックスに起因するところはある。
聡史は様子を見ていたが、翔が話し終わると男の子の所にきて、翔の反対側にしゃがんで言う。
「いい経験できたね。ここでちょうど半分登って来たところだよ。これからがきつくなるからお母さんを助けて頑張るんだよ。」
男の子は「うん。」と言ったが、不思議そうに祠の後ろを眺めている。
翔はその視線の先を探るとにっこり笑って振り向き、男の子の頭を撫で、「しー」と微笑んで右手の人差し指を口に当てた。