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声がする。『・・・声?』鼓膜ではなく直接『心』に響いてくる。
『・・・忍ちゃん・・・起きて・・・』
聞いたことがある響きだった。不思議なほど心が落ち着き胸の奥が温かくなる。母にも似た安心感がある。
どんな時にも自分を守ることに全力を傾け、幸せになるように祈り続けてくれる母親の香りがした。
「忍。ほら菫が咲いているよ。見てごらん。小さな紫色の綺麗な花だね。菫はね、宿根草と言ってね、寒い冬の間は地面から上は枯れて地下の根だけが残って春を待つの。温かい春の気配を感じて葉を伸ばして前の年に根に蓄えられた栄養と新しい年にお日様からもらった栄養で茎を伸ばして花を咲かせるんだよ。近づいて嗅いでごらん。小さな花から爽やかな春の香がするでしょ。この菫の花言葉は『小さな幸せ』って言うの。あなたの名前はね、この菫を見てどんなに寒い厳しい季節にも負けないで耐え忍ぶようにってお母さんが考えて付けたのよ。何時か温かい季節を感じて花開くようにってね。」
まだ夢の中にいるのか・・・幼い頃、長い入院生活をしていたらしい・・・気が付くと南足柄ではなく横浜の綾南区というところの病院にいた。目が覚め、幾つかの検査が終わるとこの土地に住むことになった。祖母は小田原に帰り、母は自分を連れて南足柄に挨拶に行く。南足柄の人達は喜んでくれた。小陽ちゃんとも話した。自分の療養も兼ねて母の大学時代の恩師の勧めで横浜の青嵐学院大学附属病院に就職する事を伝えると、駅ビルの人達と医院長たちは皆とても喜んでくれていた。
去年。弓道の練習試合で小田原に行った時。祖母への挨拶の後で、ついでに立ち寄ったが、皆覚えていてくれた。本当に僅かな時間しかいなかったのに皆は自分をこの土地の娘の様に扱ってくれた。
『故郷ってこういうものなのかもしれない・・・』
幼い時に点々と居住の地を変えていた。品川に生まれ、小田原で数か月を暮らし、その年の春からこの南足柄で過ごし、友達が出来た。そして、横浜に来た。
当時の園長も覚えていてくれている。今の横浜での生活は楽しい。それでも、この南足柄の生活が無ければ今は無いと思っている。
この地で母と過ごした日々は、儚い夢の様に色褪せてきてはいるがとても幸せだった。
幼い頃、母と手を繋いで歩いた道を一人で歩いた。
畔では紫陽花が咲き、水の入った田んぼでは綺麗な緑の葉を伸ばした稲が生えそろっている。蛙の鳴き声が心地よく懐かしい。広い空に燕が低く飛んでいる。
豊富に流れる水路の水は澄んでいて、ひと時の涼を与えてくれた。
傾きかけた陽の光を受けた田を渡る少し湿った風がやがて来る夏の気配を運んでいる。
何時かまた、母と手を繋いで歩きたいと思った。
本当の父の事を母は話さない。記憶の中にいる父はいつも怒っていたように感じる。
もしかしたら自分を憎んでいたのかもしれないとも思う。
でも、そんなことはどうでもよかった。母は常に自分の事を想っていてくれる。そして信じていてくれる。母から特に何かを強制された事は無い。自分が思うまま生きるよう協力してくれていた。そんな母が喜ぶようにと思い、自分に出来る事は何でもした・・・して来たと思う。・・・今日までは・・・
『・・・忍ちゃん・・・』
また声がする。このまま夢を見ていたかった。自分はとても幸せだった。母に愛され、その母を愛した人達にも愛されていた。幸せの微睡みで終わってもいい・・・
『・・・終わる?・・・何が・・・』
意識が吸い込まれて行く。
髪の長い綺麗なお姉さんが微笑んでいる。母が隣にいて笑っている。
駆け寄ると抱き上げられた。
『こんにちは~。忍ちゃん。これから少し遊ぼうか。』
・・・楓さん・・・
『意識を吸い込む感覚には気を付けてね。あなたがしても、されても危険よ。』
咄嗟に意識を集中させ心に壁を造る。周囲の状況が分かった。
『・・・雫さん・・・』
『あなたの力は物事の理を把握する能力よ。あなたの近くにはもう一人もっと大きな力を持っている人がいるの。』師が言った言葉が蘇って来た。その対処法も・・・
目を開ける。背中に温かみを感じ見上げた。
「翔君。」
記憶が戻る。翔が生きているのを感じて心を静め、前を向く。輝き旋回する鳥を見た。
「葦矢」
呼ぶと真っ直ぐ自分に返って来る。通りの狒狒が消滅していった。左手を伸ばし掌を上にあげて向かい入れると鳥の形をした光は小さくなり忍の掌に吸い込まれて行った。
忍は振り返り雫を見る。
雫は流れ落ちる涙を拭いもせずに正面にいる巨大な狒狒を見つめていた。
翔は平然としているが狒狒達に異変が起こる。皆頭を押さえ悶え始めていた。
忍にも頭痛のような違和感が生じ始める。脳の奥、松果体に直接働く微動を感じている。
雫の感情が伝わり拡大し続ける念波を防御するのが精一杯になる。
『これ以上は危険だ』
「雫さん!」
忍は声を掛けるのと同時に雫へ念を送る。雫は我に返り忍を見る。雫はそのまま糸が切れた操り人形の様に崩れ落ちた。
忍が立ち上がり助けようと駆け出すところを青い斑が入った大きな白い狗が雫を咥えて座らせた。立ち上がった忍は狗を見て動けなくなる。
『・・・神様?』
感じたこともない程途轍もない大きな存在だった。今まで気付かなかった事が不思議なくらいの威圧感。
底知れない『力』の中に、嵐が過ぎ去った後の澄み渡った夜空に浮かぶ美しい月の情景が忍の脳裏に浮かぶ。
翔を奪い、忍を連れ去った巨大な狒狒に対しても驚異的な『力』を感じた。
それ以上の力・・・桁外れに大きな『存在するエネルギー』がある事は直ぐに分かった。
「ねーちゃん」
荷物を下ろした翔が立ち上がり忍の後ろに立つ。
霽月と目が合うと頭の中にもう一度言葉が流れ込む。
『巳の神の言葉を思い出せ。力を開放しろ。』
・・・巳の神・・・
『あの大蛇の事か・・・』
岩屋で対面した巨大な蛇。あの時は何を言っているのか分からなかった。
父親の最後を思い出した今は、理解の幅は広まったが、『力の開放』とは何を指すのか。
巳の神の言葉を思い出す。
『光雲の子よ。世に戻りし意味を知れ。光雲が友を永劫の束縛から解き放つ時が来た。しばし眠りし王の名を呼べ。宿業を背負いこの世を生きよ。』
今までの体験や会話から、自分が光雲の子、子孫であると言いたいらしい。生まれた意味を知れ。と言う部分は分かる。これは父の子である以上、同じように物怪と対峙する事を意味するのかもしれない。その後の言葉は分からない。
光雲の友が束縛されていて開放してあげろという言葉は分かるが、誰を指すのかは分からない。王の名前・・・宿業・・・。
『古文は苦手なんだよな・・・古文・・・ではないか』聡史のようなボケが浮かぶ。
「翔君。」
忍に呼ばれた。いつの間にか振り返って翔を見上げている。
「名前は聞いているはずよ。お父さんが最後に見せていた戦いを思い出して。光雲の友はあの狒狒・・・狒狒になってしまった心の優しい猿。あの子は永遠ともとれる永い年月を苦しみ続けているの。あなたの宿業は多分、全ての生命、魂の守護や救済だと思うわ。」
「忍さん。・・・何故それを?」
またしても自分の心が読まれた事に驚く。
『そうか、忍さんは、楓さんの弟子だった・・・』
「雫さんが教えてくれたの。あとはあなた次第よ。秋月光雲の子・・・神崎翔君。」
忍は言って、両手で翔の胸を軽く押す。背後で動く気配を感じ、振り返った。
背を向けていた翔に向って狒狒が突進してくる。
「えっ?」
目の前に狒狒の群れが津波の様に押し寄せた。咄嗟に身を屈めようとして下を向いてしまう。身体を起こそうと左肩・・・肩甲骨が勝手に蠢く。
何かの声がした。『開放せよ』
下腹部、臍のやや下に熱を感じる。その熱が背骨を這いあがり両肩から指先へ流れて行った。脊髄を上がり脳髄にも流れ込んでいるのが分かる。下半身には両脚から爪先へ送り込まれ循環して背骨に螺旋を描きながら上がって行く。
この瞬間に自分に襲い掛かる全ての狒狒の位置が把握できた。
顔を上げ狒狒を捕らえる。目ではなく感覚が捕らえた狒狒が一瞬で燃え上がり煙に帰って行った。
翔には何が起こっているのか理解できていない。『自分がやった』事だけは確かなようだと思っただけだ。
狒狒の群れが消滅した瞬間。大きな黒い影が目の前に現れたかと思うと翔は吹き飛ばされ、受け止めようとした忍と共に霽月の足元に転がった。
霽月は雫が巻き込まれないよう位置をずらし、一連の動きを身動きせずに見届けていた。