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朧 OBORO  作者: 悠良木慶太
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夏の陽射しが朝霧(あさぎり)をかき分け皮膚に突き刺さる。横浜から始発の電車に揺られ、渋沢駅に到着した時には足早にホームへ駆け込む通勤の大人たちの姿があった。

槍穂岳(やりほだけ)登山口行」

バスはロータリーの右側、一番奥に止まっている。

車内にはすでに数人の人影があるが運行表ではまだ時間があるはずだ。

駅前で唯一開いているコンビニに入り飲み物と携帯食を補充してから車両に乗り込む。

後部乗車口の券売機で二人分の券を買った。終点までは520円。通常運行のバスとは違い登山口行きの車両は旧式のシステムのようだった。

券を持ち三人掛けの椅子に二人で座る。停車中のためエアコンは作動しておらず乗客のいる席の窓が数か所開いていた。

「窓、開けてくれよ」聡史(さとし)が言った。

無言で窓を開ける。車内に侵入した風は湿気を含み生暖かい。

「かえって暑くないか。」翔は言い返した。

腕を組んで大きな欠伸(あくび)をした聡史を横目で見てから窓の先を見ると、朝陽が霧を照らし七色に反射している。一瞬、視界の隅に青白い光が走って行くのを見た気がした。

大きな音とともに尻に振動が走る。送風口からかび臭い空気が吐き出され、次第に冷気に変わっていった。

「おし、生き返る。」聡史は満足そうだ。

運行案内で停車予定のバス停と乗り換え説明のアナウンスが流れドアが閉まった。

窓を閉める。隣の聡史は眠り始めていた。これから目的地までは約40分とのことである。

「出発します」運転手が言い、バスはゆっくりと国道の入り口へ滑り出した。



「なあ、キャンプしようぜ。」

学期末テストの最終日、仲村聡史は話し掛けてきた。

「・・・。おまえ、追試とか大丈夫なのかよ。」

神崎(しょう)が応える。昨日までは「最悪だ、最悪だ。」と呪文のようにつぶやいていた聡史を思い返していた。

「当然!追試も補修もない!・・・はずだ・・・きっと、多分。」

「あ、そう。」根拠はないが、事実なのだろうと思えた。

「翔のほうこそ大丈夫なんだろうな。」

「多分な。で、どこに行きたいんだよ。」タブレットを鞄に仕舞いながら聞いた。

「槍穂岳」

悪寒が走った。左肩が疼いている。『何だ』と思ったが異変とは別に問いかける。

「なんでまた・・・。」

「いや、な、昨日現実逃避中にググってみたんだけど、初級から上級者まで楽しめるハイキングコースに槍穂岳がでてきて、登山口までのバスもあってな、整備されたコースを歩くと小さな集落やキャンプ場なんかもいくつかあって炊事場や店とかもあるらしいし、三日も歩けば楽勝で山中湖まで行けるみたいなんだよ。去年は結局何もしなかったから高校生活を充実するためにも二泊か三泊くらいでハイキング行こうぜ。」

『現実逃避するなよ』心に強く刻み、応える。

「二泊か三泊って、上級者の登山ルート行く気なのかよ。俺らド素人だぞ。そもそもキャンプ目的ではなくなっているし、もはやそれはハイキングでもない。バリバリの登山だ。主旨がずれているぞ。それに、槍穂岳は・・・。」

「ん?」聡史が(いぶか)しんだ。

「まあいいや、家族に相談してみる。俺が山に入ることをひどく嫌っているから無理かもしれないけど。それと、お前の情報、微妙に間違っているぞ。」

「なに?翔、槍穂岳詳しいの?ま、資金や道具の問題もあるしな。ダメだったらバイト見つけて海にでも行こうぜ。」

『普通、夏は海だろ。』と思いながらも、大学の附属校とはいえ来年の夏は進路にかかわる。そう考えると確かに今年のうちに何か残したいとは思った。

『槍穂岳か・・・』良い機会かもしれないなと思い始めていた。家族の反対は予想できる。翔には乗り越えなければ成らない山は幾つもあった。


思い通り家族は大反対だった。特に姉の反応は翔にとっては予想を超えるものであった。

「絶対だめ!山はだめ!槍穂岳なんて絶対だめよ!」

姉の(しずく)は普段からは考えられないくらい早口に「だめ」を連呼した。もはや反対を通り越し拒絶の域に達している。やはり「槍穂岳」は鬼門のようだ。

母親も反対の意思は固いようではあるが、伯父の意見を聞いてみようと提案した。

伯父とは母の兄で、西丹沢にある黎明寺(れいめいじ)で住職を務めている弓削(ゆげ)英俊(ひでとし)のことであり、法名を宗麟(そうりん)という。母の実家でもある代々の寺を守っていた。先代住職の祖父は三年前に他界したが祖母は健在で妻の妙子(たえこ)と、長男で跡継ぎとして修業中の(ひで)(ゆき)、雫と同い年の次男で現在は海外に留学中の俊之(としゆき)がいる。

母は少し考えてから携帯を取り出した。

世間話を交えながらも本題に入る。声のトーンが変わったが意外にも回答は早かった。

「とりあえず寺に来い。って。」母親は静かに言った。

『寺も山の中じゃないか。』言いかけたが従うことにした。


翌日曜日、雫の運転で黎明寺に向かう。昨夜からの雨はあがっていたが、ヘッドライトが濡れた車道を照らし、湿ったロードノイズを出していた。雫は別人のように滑らかな運転をして横浜横須賀道路に入る。

保土ヶ谷バイパスから東名高速道路横浜町田ICに入ると薄明りが広がり路面の霧を浮かびあげた。大井松田ICで降り、最初の分岐を山北方面に向かう。国道246号線に合流すると緩い登り坂に入り「谷峨(やが)駅入口」の信号を越えると小雨が降り始めた。道は下りになりスピードが上がる。「清水橋」の交差点を右折し県道76号線に入り、地元の小さな商店を抜けて清水橋を渡る。ここからは長い登り坂道が待っている。左に(かわ)内川(ちがわ)(うかが)いながら、次第に谷を形成していく。坂が急になり路面がアスファルトからコンクリートの舗装に変わった。木々に覆われた分岐をダム方面に曲がると舗装が戻る。照明の暗い隧道を越えると視界が開け神奈川県の水瓶「丹沢湖」が水をたたえていた。丹沢湖記念館を越え永歳橋を渡り、西丹沢方面に向かうころには雨脚はさらに強くなってきた。橋を渡りきると再び登り坂が続き、水量を増してきている中川(なかがわ)(かわ)を右に(のぞ)みながら進んで行く。やがて二件ある温泉宿の先に「黎明寺入口」の立札がワイパーの隙間から確認できた。寺への細道に入ると車一台がやっと通れるだけのコンクリート舗装された急勾配の坂道があり、木々に覆われた九十九(つづら)(おり)の坂をくねくねと登って行く。しばらく登ると砂利敷きの駐車場が現われた。奥に黒のワゴン車と黄色い軽自動車が止まっている。軽自動車の隣に停車させると、高速から寝息を立てていた母が大雨に驚いていた。急いで傘を差しながら車を降りる。滝のように水が落ちる石の階段を見上げると、淡い紫色に咲いている紫陽花(あじさい)とともに山門が(かす)んで見えた。顔を見合わせてから無言で石段を登り始める。山門まで登りきり、雨水をはらっていると玄関の引き戸が開いた。

「弥生。大変な日に来たね。しずちゃん。運転大丈夫だった?」祖母が声をかけてきた。

「お母さん。元気にしていた?」母がかえした。祖父の三回忌で昨年末に帰省して以来だ。

傘を差し小走りで玄関に向かう。差し出されたタオルを受取り軒下で拭き取っていると、本堂の渡り廊下から法衣を着た伯父がこちらを見ていることに気付いた。

軽く会釈をするとニッコリと笑って住屋の方へ歩いて行った。

濡れた靴と靴下を脱ぎ、祖母に連れられて冷房の効いた居間に入ると伯母が待っていて麦茶が出された。山寺とは思えない洋風な内装の部屋で、当然のように冷暖房完備であり、全室床暖房まである。何故か携帯も全メーカー使用可能だ。窓の外は土砂降りになり風も強くなってきたようだが、室内には外の音が全く聞こえてこない。

伯母からずぶ濡れの服の代わりに作務衣を渡された。着替えて待っていると濡れた法衣の(すそ)(ぬぐ)いながら伯父が入ってきた。

「大変だったね。これ以上降ったら通行止めになるかもしれないよ。」

ダム湖周辺の道路は降水量が一定値を超えると通行止めになるゲートがいくつかある。ここに来るまでに通った隧道にも警告板があった。

「さて、本題に入ろう。翔だけ一緒に本堂に来てくれ。」伯父の顔が住職のそれに変わった。


住屋から板の間の渡り廊下を伯父の後を追って歩く。三間(さんげん)ほどの長さの廊下は、翔たちが到着したときに開いていた戸がすべて閉まっていた。

本堂に入ると四本の金柱に囲まれた(しゅ)弥壇(みだん)に、二本の大きなろうそくの炎に照らされた薬師如来像が鎮座している。壁の間接照明が天井の曼荼羅(まんだら)橙色(だいだいいろ)に照らし堂内は落ち着いた明かりで包まれていた。雨戸がすべて閉まっていたが普段は開け放たれ、障子越の柔和な自然光に満ちていたことだろう。

外陣と呼ばれる礼堂の中央に白い敷物が敷かれ座布団が一つあり、そこに座るように言われた。正座して座るとお香の匂い、「白檀(びゃくだん)」の香に包まれた。正面の薬師如来像を見上げると柔らかい、慈愛に満ちた微笑みをたたえていた。

寺のご本尊である薬師如来像に深く拝礼してから、内陣を降り本尊を背にして宗麟住職は向かい合って座り、翔に足を崩すように促した。

住職の身長は翔よりも15センチメートルくらい低いはずだが直接対面するといつも実際よりも背が高く感じる。母親より五歳上のはずなので今年ちょうど五十歳だが、見た目はずっと若く見え、顔の表情と同様に引き締まった身体をしている。

少しの間をおいて、住職は口を開いた。

「ちょうど十年になるね。」優しく(ささや)いた。

「はい。」どう答えてよいかわからず言葉が続かない。


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