かみさまになりたくて
短編
何不自由のない人生を送っていました。
ここでいう「何不自由のない」というのは、金銭的、地位的に優雅な生活を送っていたという意味ではありません。ただ、「自分は不幸だ」とは思わなくて済む程度の自由を持っているということです。
金持ち過ぎず、貧乏でもない家庭に生まれ育ち、やや勉強は苦手だが進路に大きく困ることもなく、運動神経が特別良いわけでもないが健康な体を与えられ、飢餓や疫病や戦争もない時代を過ごすことが出来ました。
子どもの頃は与えられた環境で勉強し、人との繋がりをもち、健やかに身体を動かしました。人並みに恋愛し、出会いと別れを経験し、たまに美しい景色を眺め涙を流すことが出来ました。
大人になれば多くの人と同じく社会の一員となり、働く喜びと苦しみを知りました。稼いだお金で自らの欲する物を買い、少し贅沢な食事をとり、いつの日か親の家を離れ、自立し自律することで一人の人として成長することが出来ました。自由に過ごす楽しさと難しさをその身に知らせることが出来ました。
思い返すと楽しいこともあれば辛いこともありました。あまりの幸せに心の底から笑えることもあれば、何もかもに疲れ、すべてを投げ出したくなる自分もいました。自分に我儘になれることもあれば、周囲のことばかりを考えて、身動きが取れなくなる自分もいました。
しかし、すべての時間を統括すると、明らかに自分は幸せな部類の人間に入るのだと思います。自分自身で自分のことをそう思える時点できっと幸せなのだろうと考えます。
しかし時折思うのです。この満足しているはずの自分が、得も知れぬ闇に飲み込まれるような瞬間があると、綺麗にはめ込まれたパズルが、たった一欠けらの綻びから、すべてが崩れ去ってしまうような感情が心の奥深くに住み着いていることを。
これは弱さと言うべきなのでしょうか、凡人の私には到底理解しきれないものなのかもしれません。いや、人間として生きているうちには誰にも説明できない、形のない問なのかもしれません。
私は何かを知れたつもりで実は全く何も理解していないのかもしれません。子どもの頃に教えられ、大人になってから学んだことも、すべては、本質的な意味では無意味だったのかもしれません。人としての喜びも悲しみも、愛情・友情・決意や挫折といったものもすべて経験したつもりであっただけなのかもしれません。
だから私はこういうときに望むのです(こんな私が望むというのも滑稽ですが)。すべてを知れるようになりたい。いや、それが出来ないにしても、なにか一つについてだけでも本当に理解したと言い切れるような不変的な意志を。神のようなすべてを超越した何かを得れるようになりたいと。
私は何不自由のない人生を送っています。




