第三話 夢の中で、目覚めるもの
僕らは城門を閉じ、重く巨大な閂をかけた。
あの大軍が到達すれば、この門さえ、紙のようなものだろうけど――。
「さて、どうしたものかな」
「敵の数は多いですが、結界に入れば長時間は活動できません。特に地下神殿は結界の中心ですから、あそこまではたどり着けないでしょう。一時退避して……あとは、包囲を突破する機会を」
そこまで言いかけた時、アローネの体ががくんと奇妙に揺れた。
白いドレスが、ペンキでもぶちまけたように真っ青に染まっている。
それが彼女の血なのだと気付くのにわずかな時間を要した。
胸とわき腹の二カ所。太い矢が二本、背中から正面に向かって貫通している。
僕は事態が呑み込めず、ただ魚のように口をぱくぱくと動かしていた。
「敵です!」
アローネは頭上を指さし、青い血を吐きながら叫んだ。
見ると、トンボのような羽を生やした小さな船が数隻、弧を描くように滑空している。その上に、矢を構えた兵の姿が見えた。
瞬間、真横からの激しい衝撃を受け、僕の体は人形のように地面を転がった。
痛みをこらえながら身を起こすと、そこはちょうど建物の影で、上空からは死角になる場所だった。
――そして、僕は見た。
地面に突き刺さった大量の矢。その中に、全身を貫かれ、標本のように縫いつけられたアローネの姿があった。
掌の皮膚が裂け、太い触手がそこから僕の方へ向かって伸びている。
咄嗟に僕をはね飛ばしてくれたのだとすぐにわかった。
ぴくりとも動かない彼女の体から青い血が大量に溢れだし、無情にも大地を染めていく。
僕は何をしているんだ。
何のためにここへやってきた。
役に立たないどころか、彼女を守るどころか……、
情けなくても、悔しくても、涙さえ出なかった。
追い打ちをかけるように、音を立てて城門が破壊され、完全武装した兵士たちが雪崩れ込んでくるのが見えた。
「くそ……ッ」
僕は銃を抜き、迫りくる軍勢をめがけて撃ちまくった。
しかし、二、三人は不意打ちで倒れたものの、すぐに分厚い盾を携えた部隊が前面に展開し、闇雲に撃ち込んだ銃弾はむなしく跳ね返されていった。
二丁の銃はあっという間に弾切れを起こし、ただの鉄の塊に変わっていた。
それを確認すると、いよいよ剣や槍を持った兵が距離を縮めてきた。
凶暴な光を放つ切っ先が、一斉に僕の方を向く。
後ずさった瞬間、地面の凹凸に足をとられ、僕は無様に転倒した。
足音が周囲を取り囲む。
……もう、好きにしてくれ。
見知らぬ空の下に、僕は体を投げ出していた。
ゲームオーバーだ。
アローネやこの国の人々には申し訳ないが、僕は救世主などではなかった。きっと手違いだったのだ。
両目は開いたままなのに、視界が闇に沈んでいく。
突きつけられた現実を拒絶して、神経がぷつり、ぷつりと、勝手にシャットアウトしていくようだ。
終わりだ。僕は、もう。駄目だ……。
◆ ◆ ◆
気がつくと、そこは見飽きた狭苦しいアパートの一室だった。
しかし、どこか違和感がある。
その正体にはすぐ気が付いた。
ちゃぶ台をはさんで、ゆったりした衣服を纏った見知らぬ老人が僕の向かいに座っているのだ。
「あなたは、もしかして……」
その姿から受けた率直な印象を、僕は口走っていた。
「神様……ってやつ」
老人は顔の大半を覆う立派な髭をもごもごと動かしながら、ふぉふぉふぉと笑った。
「神様とは、また、私もずいぶん買いかぶられたものだな」
違うのか。
ようやく救いの手が差し伸べられたと思ったのに。
「まあ、そうがっかりするな」
老人は、ちゃぶ台の上にあった湯飲みを持ち上げ、中のほうじ茶をぐいと飲み干すと、髭をぬぐいながら言った。
「よいか? そなたには、そなたにしかない力がある。だからこそ、幾千幾万の夢を旅した末に選んだのだ。世界の壁を越えてここへやってきた時、それはすでに目覚めているはずだ」
節くれ立った指が、僕の胸を指した。
不思議と、チリチリとした熱が、体の奥で燃え始めるような感覚がした。
「……立て」
老人の声が遠くなる。
いや、すべてが遠のいていく。老人の姿も、アパートも、何もかも。
「我が国と、民と……娘を、頼む」
「立って……!」
「立って、クロウ」
「アローネ……」
血塗れになり、地に伏しても、彼女の瞳は燃えるように輝いていた。
それは、他でもない、僕を信じる瞳だ。
「あなたには必ず、世界を救う力がある」
僕の力。
僕にしかない力。
そうだ。この僕の、ほとんど無意味に思えた人生でも、ただひとつ積み重ねてきたものがあった。
僕は両目を閉じ、ゆっくりと呼吸した。
意識を深く、深く、自分の中心へと沈めていく。
それはやがてブラックホールのごとき底なしの大渦となり、周囲の世界までも吸い寄せていく。
絶望に呑まれてはならない。
呑み込むのは自分だ。
敵を、世界を……自分の深淵へと引きずり込め。
僕の力は空想だ。
夢想し――そして、無双せよ!
気がつくと、僕は風に抱かれていた。
重力から解き放たれた感覚。
足下に、城の尖塔と、城門の外に広がる果てしない世界が見えた。
そして――大地に現れた巨大な黒渦と、足をとられ動きを止めた無数の兵士たち。
渦の中心で瞑想する人物は、僕だ。
そう――あそこにいる僕の想像した“最強の自分”が、意識を宿し、自在に動き回る力を得たのだ。
僕は、地上にいる本体の目を通して、自分の意識体の姿も捉えることができた。
それはおおむね人型をしていたが、全身は深淵のごとき漆黒のスキンに覆われていた。
頭には赤く発光する部分があり、これは全方位を知覚する「意識の目」である。
異様に長い四肢は自在に伸縮し、分化し、時に翼へと変わり、空も地も意のままに駆け巡ることができる。
僕には不思議と、すべてがわかっていた。この体のことも、戦い方も。
まるで、失っていた記憶を取り戻したかのように。
「意識の目」は、アローネの容態もはっきりととらえていた。
傷を負ってはいるが、呼吸も心音も知覚できる。
――待っていてくれ。すぐに、片付けるから。
僕の意識体は両手両足の指を剣のように変形させ、高度を下げながら兵士たちの中へ突っ込んだ。
きりもみ回転しながら、触れるすべてを切り裂いていく。
鋼の鎧も意味は成さない。大渦に吞まれ、僕の意識によって侵蝕されているためだ。
もちろん地上だけではなく、空の敵も逃がしはしない。
僕の意識は天高くまで達し、網目状に展開して奴らを絡め取る。まるで巨大な蜘蛛の巣のように。
僕は黒いカマイタチとなり、空も大地もすべてを舐めつくした。標的と認めたものは残らず細切れに切り刻んだ。
それは過剰な殺戮だった。しかし、傷付いたアローネの姿が、僕の怒りを燃えたぎらせ、意識体に攻撃を止めることを許さなかったのである。
どれほどの時が流れたかわからない。
目覚めると僕は地面にうずくまっていた。大渦も、僕の意識体も、夢のように消えていた。
周囲には鎧や武器の破片、飛行艇の残骸などが一面に散乱し、足の踏み場もない。
眷属の血痕や肉片は見当たらなかった。結界の限界時間を超え、消滅したのだろう。
「クロウ!」
振り向くと、彼女がいた。服は酷い有り様だったが、すでに出血は止まり、立って歩くこともできるようだ。
「眷属の再生能力です。私、しぶといんですよ。伊達に化け物してません 」
「化け物なんかじゃないよ」
彼女が無事だったことに、再び笑顔が見せてくれたことに、僕は心から喜んだ。
そしてそのまま、本当の眠りに落ちた。深い、深い眠りに。
◆ ◆ ◆
「三日も眠っていたのですよ」
目覚めてすぐにそう教えられ、僕は愕然とした。
アローネが牽く荷車の上で、ガタゴトと丸三日、死んだように休眠していたらしい。
目覚めた時、地下神殿の時と同様、アパートの布団の上でないことに混乱したのは言うまでもない。
記憶がよみがえってくるにつれて、あれだけの大暴れをしたツケとしては軽いかな、とも思うようになった。
……いやいや、初めての戦い、それも大軍が相手だったとはいえ、完全に力の使い方を誤っていた。
もう少しセーブした戦い方を覚えないと。
「ごめん……ずっと君にだけ重労働させてたなんて……」
すぐにでも飛び起き、荷車から降りて彼女と交代したかったが、全身が痛いやら重いやらで言うことを聞かない。
上半身を起こすのがやっとだった。
旅の始まりがこれとは、なんて情けない主人公だろうか。
「逆です。戦いでは、あまりお役に立てませんでしたから……こういった力仕事は、私に任せてください」
アローネが微笑むと、吹き抜ける風が彼女の髪をなびかせた。
僕はあらためて周囲の景色を見た。
丘の上の道を、僕を乗せた荷車は進んでいく。
日差しは傾き、茜色の光を浴びた草花がさわさわと揺れている。
「……あっ!」
僕は思わず声を上げていた。
眼下、黄昏の光の中に、大小の建造物を擁した円形の都市が広がっていた。
放射状に整備された町並みの中心には、公園とおぼしき緑地と、夕陽を浴びて煌めく噴水が見えた。
穏やかな時が、流れていた。
風に舞い踊る髪をかきあげながら、アローネが言った。
「あれが、大陸随一の技術国。……魔法都市"レミロウ”です」