アボカドさん? いいえ、アボガドロです
──時は少し過ぎて数学IAと科学の補習が終わった頃、壊れたロボットの様にぷすぷすと脳天から煙を出しながら楓はミオと対面していた。
「──この後の確認テストの総合点数で勝負ですよ!」
柊仁を賭けた楓とミオの大勝負──その内容を高らかに宣言した。
すると、ミオは嬉々とした表情で、反対に柊仁はどこか心配そうな表情で楓を見た。
「ふふっ、良いよ♪ 受けて立つよっ!」
「いつまでその余裕が続くかね?」
「あの……、テストで勝負はやめた方が……」
「──柊仁君は私を信じて見ていてください!」
「あっ、はい……」
楓が今まで取ってきたテストの点数から憂慮しているのか、柊仁はどこか心配そうな目で楓を見ている。
その心配は尤もで、今までの彼女では他人と勝負が出来るレベルに達していなかった。
──しかし、楓には勝算がない訳ではなかった。
寧ろ彼女の瞳には、自分が柊仁という景品を獲得してハッピーエンドを迎えるという自らが勝利する未来しか見えていない。
どうして楓はそんなに自信満々になっているのか、それは補習中のミオの行動がそうさせたのだった。
例えば、ある時──
『それじゃあ……十六女さん、順列と組み合わせの違いを説明をしてください』
『う〜ん? 分かんないでーす!』
「お、おう……じゃあ、一さん」
『──順番が変わると意味が変わるかどうかの違いです』
『はい、カンペキですね』
またある時は──
『十六女さん……今度は正解してくださいね?』
『が、頑張ります……!』
『ズバリ、円順列と数珠順列の違いは!?』
『……分かんないでーすっ!』
『ノオオオオ!』
そして極めつけは──
『十六女、アボガドロ定数を説明してみろ』
『あ、あぼ……? あぼ、アボ……あっ、アボカド!』
『ハッハッハ、冗談キツイぜぇ? なあ、一?』
『ふふ、そうですね。正しくは1molあたりの粒子の数です』
『正解だ』
この通り、求められた説明に対してミオがきちんと答えられたのは一問もなかった。
それに対して、昨夜こっそりと猛勉強してきた楓は全部答えられていた──ただ、知識を詰め込み過ぎて多少オーバーヒートしているが。
──こんな弱点丸出しの敵を見たら、いくら勉強が出来なくてもテストで勝負する気になるのは当然だった。
「──そういえば、私が勝った時どうしてもらうか決めてないじゃん!」
「今までの状況を鑑みて、貴女の口から『勝った時』なんて出るとは思いませんでした。まあ、どうせ私が勝ちますから、お好きにどうぞ?」
「うーん、それじゃあ……」
余裕な態度を見せる楓を傍目に、ミオは顎の下に指を当ててしばし考え込んだ。
そうして一分……二分と経過した頃、天井を見上げていたミオは「うん、やっぱりこれかな」と小さく呟くと、楓に視線を合わせて言い放った。
「それじゃあ──私を敬って大切に扱いなさいっ!」
「…………ほへ?」
柊仁に近付くな──そんな事を言われると思っていた楓は、ミオの想定外の返答に珍しくもアホっぽい声を漏らした。
「何かおかしい?」
「いやいや、もっと何か凄いことを要求してくるのがお約束じゃないの? これじゃあ、私が性格悪いみたいじゃない!」
「せ……ごほん。何もおかしい事なんてないよ?」
一瞬言葉を詰まらせたミオはそれを隠すように、笑みを浮かべた……少し引きつってはいるが。
(あっぶなーっ、『性格悪いのは合ってるけど……』って言わなかった私偉い、ちょー偉い!)
引きつった笑みの答えはミオの思考の中に隠れていた。
実際、口を滑らせていたら再び戦争が勃発していたから我慢したミオはちょー偉いのだ。
「なに〜? 私に負けるからって、諦めちゃったのかな〜?」
「そんなそんな、逆だよ〜──絶対に勝つから酷い要求しないの♪ 私はどこかのお馬鹿ちゃんとは違って、ピリオドを悲しませるような事はしないの☆」
「アボガドロ定数をアボカドって言った貴女にだけはバカって言われたくないですよっ! ……あ、あと柊仁君にも同じ勘違いをしていましたから言われたくないでーす!」
「──ギクッ!」
楓とミオが対立している間、口も挟まずに柊仁は何をしていたか──それは勿論、勉強である。
成績優秀な柚茉を先生にして、補習中に分からなかった所を教えてもらっていたのだ……当然、よく分かっていないアボカドとアボガドロ定数の違いも。
柊仁としては、ミオが間違えてくれたお陰でバカを露呈せずに済んでいたと思っていたのだが……いつも通り楓にはお見通しだったらしい。
「いや〜、アボカドなんてそんなそんな思っても……」
「──お待たせしました、テストを始めます。机の上の物をしまって席に着いてください」
柊仁の弁明、もとい意味のない誤魔化しが始まろうとした瞬間、教室の扉が開いて数学担当の教師が姿を現した。
教師は柊仁達を一瞥すると、淡々と指示を出した。
「絶対勝ちますから!」
「さ〜て、どうかな〜?」
「むきーっ! 二度と柊仁君に近付けなくしてやりますよ!」
「──一さん、早くお席に」
「あっ、すみません!」
本日初めて注意らしい注意をされた楓に、ミオは「にっしっし」といたずらっ子の様な笑みを浮かべた。
(──勝って目に物見せてやるんですから!)
先生がいる手前、これ以上は怒れないと渋々引き下がった楓。
しかし、彼女の心の中では阿修羅の如き闘争心が燃えていた。
「それじゃあ──始め!」
不安げな柊仁に、余裕綽々といった表情な柚茉とミオ。
そして──熱く燃えている楓。
(やってやるんですから!)
──楓は今までにない程にやる気を見せ、テストへと取り組んでいったのだった。
★☆★☆★☆★☆
──三教科、各五十点満点の確認テストが終了した。
「──溝口柚茉」
「は〜い」
今は丸つけされたテストが順々に返されている最中であり、柊仁の次が柚茉であった。
「あっ……二つ間違えた」
「いや、二問って凄いでしょ……」
「このくらいの難度ならとーぜんでしょ?」
「うぐっ……」
「あはは、冗談だよ」
ここに揃っているのはあくまで補習対象生徒であり、テストの難度はそこまで高くなかった。
故に、柚茉は満点確定だと思っていたし、柊仁もそこそこの点数を取る事が出来た。
そのお陰でテスト前は不安げだった柊仁の顔も幾分か晴れていて、その上内心では調子にすら乗っていたのだが……残念ながら、乗っていた調子は一瞬にしてぶっ壊された。
「まあ、私達は置いといて──注目ははあっちの二人でしょ?」
「ん? ああ、まあ……そうだね」
柚茉の興味津々といった視線が教卓の前に立つ楓とミオに注がれた。
楓とミオが勝負していると知った教師は、二人同時に配るという粋な計らいをしてくれるらしい。故に二人の返却は最後に回され、いよいよ返却の時となっていたのだ。
しかし、興味津々な柚茉とは違ってどことなく冷めた雰囲気の柊仁。
そんな彼の視線には誰も気付かず、二人のテストが返された。
「──ふむふむ……まあ、そこそこですかね」
受け取ったテストの点数を一瞥した楓は静かにそう呟いた。
その表情からは何も読み取れず、予想通りの結果であるのか、予想を裏切る結果であったのかは分からない。
それに対してミオは──返されたテストに目を向ける事はなかった。
「良いんですか、見なくても?」
「見たところで結果は変わらないからね〜」
「負ける結果が、ですか?」
「さあね〜?」
愛も変わらず飄々としているミオに、楓はムッとしたが何も言わなかった。
先の読めない展開を繰り広げる二人に、柚茉はテレビにのめり込むように見つめると固唾を呑んだ。
楓が勝つか、ミオが勝つか……そんな二つに一つの結果を出そうと最初に動いたのは楓だった。
「私は150点中──120点です! どうですかこの点数、貴女には絶対に取れないでしょう?」
楓が言い放ったのは、簡単だったと考えると何とも微妙な点数……という事でもないのだろう。
だって、柊仁は百点とちょっとばかりしか取れていないのだから。
八割──これが全国テストだったら上々の結果だろう。
それに、普段ならば柊仁レベルの点数なのだ。十分に頑張った方だろう。
「さあ、次は貴女の番です。何か言い残す事は?」
「特にないけど〜……」
ミオはあっけらかんとそう言うと、楓と目を合わせて──
「──精々、吠え面をかかないようにね〜♪」
──右上にそれぞれ50点と書かれた、つまり総合得点150点のテスト用紙を見せつけたのだった。