最初は誰しもが奥手になってしまう──それが恋
──とある日の昼下がり、俺は委員会の業務でいつも通り図書館の主になっていた。
カウンター席にどっかりと腰をかけ、何をするでもなく窓の外を眺めていた──そんな時だった。
「──だ〜れだ?」
いつの間に背後を取ったのか、背後から回された手は俺の両目を塞いだ。
だが、視界が塞がれた所でその声の主を間違える筈もなく、即時に言い当てた。
「……あまのちゃんだろ?」
「正解せいかーい♪」
背後から俺の正面に回り込んで、嬉しそうな顔でパチパチパチと手を叩く。
そんな姿が可愛らしくてどうにも笑みが溢れてしまった。
「物思いに耽ってどうしたんですか? 先輩らしくないですよ」
「俺らしくないって何だよ……俺だってこうしてゆっくりしたい事もあるさ」
「でも……先輩ってピカピカピカーみたいなオーラを纏っていますし……」
身体の周りで手をぷるぷる振って輝きを表しているのだろうが……正直よく分からなかった。
それよりも電気ネズミの方が脳裏を過ぎったが、そんな思考は直ぐに捨てた。
何故なら──
「──先輩、相談があるんですが……」
──今までにないくらい真剣な顔で、真剣な眼差しで、真剣な声でそう語りかけてきたのだから。
物凄く唐突だった、なんならまだ何かを言いかけている最中くらいだった。
そんな中で思い出したかの様に呟かれた……筈なのだが、どうしてか緊迫感がある様に感じた。
(これはもしや……)
一度も経験がないからはっきりとは分からないが……これは告白をされる流れではないだろうか?──そんな思考が俺の脳裏を光の速度で過っていった。
そう意識してしまうと告白にしか感じられず、俺の鼓動は妙に高まり、口の中が急速に乾いていった。
こんな経験初めてであり、不安やら恐怖やら興奮やらがごちゃ混ぜになった感情がぐるぐる頭の中を巡る。
平静を装いつつも、内心大暴れであまのちゃんの言葉を待っていると、最初は消え入る様に小さく、そして次にははっきりとその言葉は告げられた──
「……くれませんか?」
「ん?」
「教えてもらえませんか?」
「んん?」
思っていた言葉とは随分と違って首を捻っていると、あまのちゃんは意を決した様に言い放った。
「──勉強! 教えてもらえませんか!」
「…………はい?」
意を決して言ってくれたその言葉の意味が俺には全く分からなかった。
勉強? 教える?──一体何の事だ?
どれだけ感考えても答えが出ない疑問に首を捻っていると、『仕方ないか』とでも思っていそうな表情を浮かべたあまのちゃんは、チャームポイントのサイドテールをくしくしと弄りながら恥ずかしそうに言った。
「私……、物凄く勉強が苦手で……お兄ちゃんにも流石にやばいって言われるくらいで……」
「お兄ちゃん居るんだ?」
「はい、南雲先輩と同じ学年の……って今はそんな事良いんです! 勉強が、べんきょうがぁ……」
膝から床に崩れ落ちたあまのちゃんは「あぁ……、あぁ……」と呻きながら涙を拭くような真似をしていた。
そんな様子を見て俺は冷静に状況を判断し直して、バグった脳内に修正を掛けた。
(相談がある→○ それは告白である→× あまのちゃんは勉強が苦手→○ 相談内容は勉強についてである→○ つまり俺は──勉強について助けを求められているのか……)
真剣な雰囲気から告白に結びつけたが、実際は勉強に関しての相談だと思って、どこか安心した様な、しかし少し不満な感情が見え隠れしていた。
冷静に自分の状況を把握して俺は思った──
「──って、俺は告白を望んでいるのか?」
「何か言いましたか?」
「いや、なんでもない」
俺はあまのちゃんからの告白を望んでいた──その可能性が十二分にある事と感じて驚いた。
誰かと付き合いたい、彼女が欲しいと思った事はあるが、具体的に誰と……とは思った事はなった。
どう扱えばいいのか分からない初めての感情を前に──俺は取り敢えず距離を置く事にした。
あまのちゃんの内心は分かっている。俺から言えば恐らく付き合う事は出来るだろう。
しかしだからこそ、一旦置いて確かめる。俺はそんな判断を下したのだった。
「──それで、勉強って具体的に何の教科なのかな?」
「私が苦手なのは……数学です」
数学──小学校の算数から難度が何十倍にも跳ね上がり、多くの学生を苦しめる教科。
最初は正負の数……プラスマイナスから始まるから簡単なのかなとも思いきや、図形やら証明やらで地獄の底に叩き落としてくる災厄の教科。
夏も中頃になる今、中学一年であるあまのちゃんには数学の最初の難関が襲いかかっているのだろう。
「今の時期だと……文字式の辺りかな?」
「まさにそうなんですが……、xとかyとか意味不明なんですよぉ……」
あまのちゃんは可哀想な声を発しながらどこからかノートを取り出して、それを俺に見せてきた。
ノートの中にはで板書された綺麗な文字達。見返すにもわかりやすく作られているノートだが、一つになるとすれば──
「──ハテナマーク、多くない?」
公式や問題が書いてある上らへんにちょこちょこ『?』が書かれている。
恐らく分からない所を示しているのだろうが、見てみると章の始まりから付いている。
「これだけよく板書してればわかると思うんだけどなぁ……」
「それでも分からないのがこの私です!」
「そんな事で誇るなよ……」
本当にどうして分からないのかが分からない。
よく分かる人は分からない人の気持ちが分からないと言うが、これは別格すぎる。
どうしてここまでやって分からないのか……理解に苦しんでしまう。
「あぁ……。先輩が私に憐れみの目を……、だから言うか迷ったのになぁ……どうして言っちゃったかな、私」
明らかに表情を暗くして落ち込んでしまったあまのちゃんは、見ていて苦しいぐらいに悲痛で、流石にフォローを入れざるを得なかった。
「ああ……えーっと、そうだな……。人それぞれだと思うぞ!」
「フォローになってませんっ!」
ありゃ、怒られてしまった。
けど仕方がないじゃないか、こんなのどうやってフォローしろと?
「ま、まあ……俺で良ければ教えるよ」
「本当ですか!?」
「ああ……俺もめちゃくちゃ頭良いって訳じゃないけどね」
「それでもです!」
目をキラキラと輝かせて俺を見つめてきているあまのちゃんに俺は少し心苦しい思いを覚えた。
何故なら──実際は俺の頭は結構良い。なんの変哲もない公立学校であるからなんとも言えないが、上から数えて五番目くらいには入っている……のだが。ここは黙っておく。
「──やっぱり、南雲先輩は優しいですね」
「そうかな?」
「そうですよ」
ふふんと鼻を鳴らして、まるで自分ごとの様に嬉しそうにするあまのちゃん。
やっぱりこの子は可愛くて、思わず男心が揺らぐ。
「あま……──」
何を口走ろうとしたのか俺の口が開かれた瞬間──昼休みの終了を告げる鐘の音が鳴った。
それが功を奏したのか、そうしていないのかは分からない。だが、この音が鳴れば俺はあまのちゃんから少し距離を取れる。
──そうすれば、この高鳴る心の音は少しは収まり、冷静さを取り戻せるだろう。
「それでは先輩、またねです♪」
「あ、ああ……またな」
カウンターの上に広げていたノートを持って、あまのちゃんは扉のほうへと歩いていった。
俺も程なくして立ち上がり、教室絵帰ろうとしたその時だった──
「──南雲先輩……好きです!」
──扉から出ていく寸前で止まっていたあまのちゃんは俺が近付くとパッと振り返り、はたまた突然ながら『告白』をしてきたのだった。