やはり鬼や化け物の類だと思ってやがる、この男
カッポン──と木桶の音が聞こえそうな空間で俺は温かなお湯に身を任せて半ばぷかぷかと浮いていた。
目の前には、筋肉バキバキで腕や足なんか大木の様に感じて来すらしてくる大男が、同じお湯の中に浸かって俺の方を真っ直ぐ見つめて来ていた。
「──ヒョロいな」
──いぃや、貴方の体に比べたらそりゃヒョロいでしょうね!
ゴツいでは言い表せない武雄さんの凄まじい身体とヒョロいと評された俺の身体が互いにどうしてそう思えるのか──それは俺と武雄さんは所謂『裸の付き合い』をしているからだ。
早苗さんの提案で決まった事だが、流石に男子高校生と大の大人が一つの湯船に浸かるのは不可能であると判断して、俺達は楓宅の近くにある銭湯に足を運んでいた──因みに楓はこの壁の向こうで早苗さんと湯船に浸かっているはずだ……むふふ。
よくある大きな富士山が描かれた壁をバックに、俺は武雄さんと向かい合って風呂に入っていた。
特に何かを話す訳ではない。ただお互いの裸体を見合いながら、少し熱すぎるくらいのお湯で日頃の疲れを癒していた。
正直気まずいが、この場を立ち去ろうにも立ち去れない。
この銭湯は小さく、この大風呂に小さい風呂がチラホラ……残りはサウナと冷水風呂しかない。しかし小ささの割には客が多く、俺と武雄さんが居るこの大風呂以外には他の客が入っていて、他に移れないのだ。
そんなどうしようもない状況に陥って、まさに『やんぬるかな』状態になっていた俺に武雄さんはその重たい口を開いた。
「貴様はカエちゃん──私の娘の事をどう思っている?」
鈍重な低い声で発された言葉。他の客の明るい声にすぐにかき消されてしまったが、俺の耳にははっきりと娘を想う父の気持ちから来る問いが届いていた。
そしてそれは離れているのに正面から殴られたかの様な感覚がしていて、身体全身がピリピリとした感覚が走っている──これはいつもとは違うと直感した。
俺はその問いに対して──
「──正直言って、自分でもあまり分かっていません」
俺ははっきりとそう告げた。分からない、と。
それを聞いて武雄さんは目の端を釣り上げたが、俺は怯まない──折角の機会を与えてもらったんだ。武雄さんとはここでしっかりと話をしたいと決心していた。
「俺と楓さんはそこまで長い時間は共にしていません……まあ、密度は高いですが。そんな時間を通して楓さんはとても素敵な方だと思っています。しかし、彼女を恋愛的に好きかと問われれば、好きは好きなんですが違うと言えば違うといった感じで──分からないというのが正しいんだと思います」
──そう、俺は楓のことが好きなのかは分からない。
誰とも知らずにトラックに轢かれそうになっているのを守り、目を覚ましたら病室の中。一ヶ月遅れで学校に行けたと思ったら、その翌日に楓から告白されたのだ。
俺は彼女の事を何も知らなかった。それに今だって楓の事を十分に知っているかと言われればノーだ。
恋愛をした事がないから分からないが、人を好きになるにはお互いの事をよく知る必要があるのだと思う。
俺達の間にはそれが圧倒的に足りず、少なくとも俺が楓を好きであるとは確信出来ていない──俺には贅沢すぎる事なのかもしれないが。
俺のその言葉に武雄さんは「ふん」と鼻を鳴らして、今までカッと開かれていた両目を閉じてしまった。
何かを思案している様な、しかし何も考えていなさそうな様子に戸惑っていると、武雄さんは再び口を開いた。
「……分からないなら分からないなりに努力しろ。楓を悲しまさせるな」
「それってどういう?」
「──これ以上は言わん」
武雄さんのその言葉には──好きなら好き、好きでないなら好きでない、曖昧なこの状態に踏ん切りをつけろ……『早くはっきりさせろ』という意味が伴っている様に感じた。
普段、俺を楓から引き剥がそうとしている武雄さんからは考えられない発言。少なくともいつもの武雄さんからは微塵も感じた事のない思いだった。
しかし宣言通りそれ以上、詳しい事は語ってくれなかった──と思っていたら、武雄さんは「ただし……」と付け加えて言葉を並べた。
「──楓を泣かせるような事をしたら、私は本当に貴様を殺す」
「う……うっす」
楓を泣かせる様な事態になったら、武雄さんは俺がどこに居ようと絶対に殺しに来る──それは彼の中で決定事項であり、絶対なる使命の様に感じた。
本当にこの人は発言の一つ一つが過激というか、何というか……しかし、そこには冗談が混じっている様には思えなかった。
楓からあんなにすげない対応をされてどうしてこんなにも楓を愛しているのか気になるところではあるが、まあそれが父というものなのだろう。
父であるから、この世で二人しかいない親の片方であるから──武雄さんは楓を愛している。
やはり、両親と離れて暮らしてきた俺にはとても眩しいものに見えて仕方がない。
今となっては俺も両親とは偶に交流があるが、それでも楓と早苗さん、そして武雄さんが積み上げてきた時間にはどうしても勝てない。
羨ましい……と思うのはお門違いなのだろうが、少なくとも俺の中にはそれに似た感情が渦巻いていた。
「──ところで、武雄さんと早苗さんはどこで出会ったんですか? 馴れ初め、教えてくださいよ」
「ああ? ……ふん、まあ良いだろう」
不意に顔を覗かせた負の感情に蓋をすべく、俺はずっと気になっていた質問を繰り出した。
最初は怪訝な顔をした武雄さんだったが、何を思ったのかそう了承してくれた。
「私と早苗が出会ったのは今から十八年前……私が十九の時だった──」
十八年前で十九歳……えっ、武雄さんって今三十七歳なの!? うわぁ、めっちゃ意外なこと聞いちゃった。
ゴツい身体と言い、どこか老練した雰囲気といい、四十代に差し掛かっているものだと思っていたが、まさかの結構お若かったのね……。
「当時、私は友に連れられてとある格闘競技の試合を観に行ってな、そこで早苗を見た……いや、正確には魅せられた」
格闘競技、試合、早苗さん、魅せられた……その単語らをかき集めて出たのが──
「──ボクシングですか?」
「ああ。あの時の早苗は十七で、プロボクサーになってから間もない頃だった。当時はそこまで人気……というか注目が集まっていた訳でもなかった」
武雄さんはどこか懐かしそうな顔を浮かべて、「本当にただの友達付き合いで行っただけだったんだよな……」とポツリと呟いていた。
この人でもこんな表情を浮かべるんだなと思ったが、まあそりゃ武雄さんも人だから当たり前の事だ──べべべべべ、別に普段は鬼や悪魔だなんて思ってないですとも、そうですとも!
「早苗は細身の身体でありながら、自分よりも何倍も大きい相手に果敢に立ち向かっていった。試合開始前に一瞬見せた様子とその様子のギャップはそれはもう凄まじかった。何よりも、鬼神の如く戦場を暴れ回る早苗が何よりも美しく見えた──私はその試合を見て、早苗に恋慕を抱いた」
子供のように明るく、そして早口で語られたその言葉達は、当時の様子をありありと浮かべさせてきた。
それだけ武雄さんの中で衝撃的な光景だったのと思わせられた。
「あの試合を見終えた私は彼女に釣り合う男になるべく、貴様の様にヒョロかった自分を変え、今こうして一緒にいるという訳だ」
「……そうだったんですか」
二人の出会いが武雄さんから接触を図ったという事だったのは意外だった──いやまあ、早苗さんからとも考えにくいのだが。
そんな少し特殊(?)な馴れ初め話を聞いて興味深く思う反面、俺の意識は別のことに向いていた──
──あの武雄さんがヒョロかったってマジ!? この人、生まれた時からこんな筋肉バキバキだったんじゃないの?!