他人の家に上がって真っ先に思う事──匂いが違う
「──ここが……楓の部屋か」
あのヤベえ部屋を覗いてしまってから三分も満たない内に、俺は楓の部屋らしき可愛らしい空間に遭遇する事が出来た。
ここに至るまでに、あの殺伐とした空間とは真逆レベルに真面目な雰囲気の仕事部屋らしき所や、恐らく早苗さんの部屋であるぽわぽわとした空間を目の当たりにしてきたが、何となくこの家に住む各人の性格の違いを表していた。
だからこそ、俺はこの部屋を見た瞬間に楓の部屋だと気付いたし、逆に別の部屋を見ても違うと思えた──まあ、一番の判断材料は『匂い』だったが。
「それにしても綺麗な部屋だなぁ……」
幼少の頃から実質的な一人暮らしをしてきた俺にとって、料理以外の家事は基本的に得意な方だと思っている。
掃除も洗濯も何の其の、家の中は常に綺麗にしておく事を心掛けているから誰がいつ来ても良い状態を保てていると思っている。
しかし、そんな俺の家の綺麗さを遥かに超えた部屋がここ、楓’sルームだった。
もういっそ綺麗を通り越して上品。埃の一つも存在していなく、置かれている家具は全てぴっちり整っていて、山頂に居るかの様に思える程に空気が澄んでいた。
楓が気をつけて綺麗にしているのか、楓が住んでいるからこそ空間が清浄化されるのかは分からない。
分からないが、ここまでの綺麗さを保てるのはまさに神業だと思った──それに俺と違って料理も一級品だし。
当然ながら部屋の端に置かれているベットのシーツにも一つの皺もないし、武雄さんの部屋とは違う意味でヤバいと感じた。
そんなベットの上に今も俺の肩の上ですやすやとしている楓を転がした。衛生上の問題から制服でベットの上で寝るのは気にするかなと思ったが、流石に脱がす訳にもいかずにそのままにしておいた──楓にやらしい事をしないのかって? したら武雄さんにぶっ殺されるわ、見ただろあの部屋!
「うぉぉぉぉ……」
羽の様に軽い楓であるのだがあまりに長時間抱っこしていた影響か、俺の右腕に電流が走ったかの様などこか心地の良い感覚が広がった。
それなりに神経や血管が圧迫されていたんだな……と他人事のように思う俺──あまりに楓が軽いから、あんまりそんな感じはしていなかったのだ。
「──それにしてもよく眠っておられますなぁ」
ここまで頑張って運んだんだから少しぐらいご褒美があっても良いだろうと思った俺は床に腰を着いて、ほっそい四肢に反して意外と柔らかみのある頬を左手で突いた。
ふにふにとした感触が指の先から返ってきて、えも言われぬ興奮が全身を駆け巡った──なんですぐ下にある大きなおっぺえを触らないかだって? さっきも言ったけど殺される……というかそんな勇気ないわ!
意気地なしと言うべきか、紳士的と言うべきか……まあ、恐らく後者である俺は欲望にひた走るのを抑えながら頬を突くのをやめて、今度は手の平で両頬を挟んだ。
楓の口がたこの様になって面白いと感じた反面で、それでも絵になっている末恐ろしさにそのままじっと見ていると──楓の両目がパッと開いた。
あまりに突然な事にギョッとしていると、楓は頬を挟んでいた俺の左手を掴んでベットの上で起き上がった。
そのまましばらくきょろきょろと辺りを見回すと何かを察したのであろう、ボンっと顔を赤くして俺を部屋から追放した。
そして──
「──ななななななななんで柊仁君が私の部屋に居るんですか?!」
よくもまあ噛まずにそれだけ『な』と連呼出来るなぁ──なんて思っていたら、起きてから一言も発していなかった楓が爆発した。
彼女の開口一番の言葉は家中に響き渡り、程なくして階下から声が聞こえた。
「かえで〜、起きたのなら下に降りてきなさ〜い」
「あっ、は〜い……じゃなくて!」
「おお……ノリツッコミなんて珍しい」
楓がボケるという事態がかなり珍しく、俺はしみじみとそう思った──まあ、楓からしたらボケたつもりはなかったのだろうが。
戸惑って俺の呟きも耳に入っていなそうな楓を前にして、立ちながら長々と経緯を説明するのは何とも微妙だと思った俺は早苗さんの指示に従って一階に行く事を提案した──そろそろ夕飯にありつきたかったし。
不意にお腹が鳴ってしまった俺を見て、楓はそれに了承してくれて二人で一階に降ってリビングに入った。
その中にはニコニコとしている早苗さんと、ムスッとした顔で座っている武雄さんが用意されたご飯を食べずに待っていた。
「楓、ちょっとこっちに来て〜」
「……ちょっと来い」
楓は招かれるままに早苗さんの元へ行き、また俺も招かれるままに武藤さんの元へ向かった──正直めちゃめちゃ怖いが。
楓の方は母親の元へ行くやいなや、速攻で抱きしめられていた。早苗さんが何やら口を動かして言っている様だが、小声すぎて俺には分からなかった。
母親の勘とは凄まじいもので、何があったか直感的に理解したのだろう。だからこその、あの行動──素晴らしい愛だなぁ。
──さて、じゃあ俺も武雄さんにああやって温かくハグでもされるのかしら、ははは……。
恐らく寝ている楓を突っついていた事に関して怒鳴られるのだろう──もしかしたら鉄拳制裁もあるかもしれない。
ブルブルと震えながら武雄さんの前に立つと、目の前の大男は少々嫌そうな、しかし何らかの意志の篭った表情を浮かべてこんな事を言った。
「今回ばかりは礼をしておく──カエちゃんを……楓をありがとう」
俺はその言葉を聞いて思わず、「は?」と言葉を漏らしてしまった。あの武雄さんが俺に向かってお礼? 何を、何の為に?
何を以って、俺という楓に纏わりつくゴミムシに向かって礼なんてしているのだろうか──こんな事を自ら言うのは大変アレではあるんだが……。
そんな戸惑いを武雄さんは見事に見抜いたのか、付け加えるように説明してきた。
「事前に楓から大体の事は聞いている。音信不通となった友の元へ向かう事や、もしかしたら何かがあるかもしれない事を」
「あ……あぁ〜。なるほど、だから──」
この家の前で武雄さんと遭遇した時、俺はぶち転がされなかったし、寧ろ優しい対応をされたのか。
それに早苗さんは楓を見ても驚かなかったし、今もああやって楓を抱きしめている……と。
全てを理解した俺は武雄さんの礼の意味も理解して残ったのは──忌み嫌っている対象である俺に向かって武雄さんが礼をしたという事実だけ。
「いえいえ〜、そんなお礼をされる程の事はしていませんよ〜!」
武雄さんに礼をされることなんて今後一生もないかもしれないと思った俺は、その礼をとことんまで噛み締めて気分が良くなった。
良くなったが故にそんなゆるゆるの態度で返答を行った──言い換えれば、調子に乗った。
「──ところでそれより」
俺のそんな様子を見てなのか、武雄さんは何処か嫌そうだった表情を解いて、いつも通りの表情に戻してからそう呟いた。
声量にしてみればそこまで大きかったわけではない。しかし、調子に乗っていた俺の身体は一瞬にして凍りついたかのような感覚に包まれた。
──そして、そんな拘束してくる声はそこからが本番だった。
「カエちゃんを二階に運ぶだけなのに随分と時間が掛かっていたなあああああ!」
「ヒイイイィイィぃぃぃ!!!」
さっきまでお礼を告げていたとは思えない程の怒号がリビング中に響き渡った。何処ぞやの中学でも感じた事のある大気が震える感覚がした。
昔の俺ならばこの程度……と余裕な雰囲気で受け流していただろう。
しかし、今の俺は例の部屋を見てしまって震え上がった時と同様に、ブルブルとするしか出来なくなってしまったのだった。




