陰湿でねちっこい。そして害悪で悪辣で劣悪
「──さあ、今日も良き日だ、良い夏だ」
陽光が地上をガンガンと照りつけて、恐ろしいほど気温を上昇させている。カラッとした空気と、ジリジリと靴の底を焼き焦がさんばかりの道路は否応なしに嫌な気分を吹き飛ばして、明るく元気な気分にしてくれる。
まさに世は地球温暖化時代。七月初めだと言うのに、既に五年前の猛暑日と気温が同じ。悲しいかな、気分を晴らしておかないと、これからの猛暑に耐えられないのだ。
だからこそ、限界を振り絞って元気な様子を出していたのに──
「ナニコレ?」
下駄箱を開けてビックリ、俺の靴に耳が生えてるじゃないか。まあ、正確には俺の靴紐が前よりもちょっとばかし短くなっていて、何故か靴紐の端っこらしき部分が靴の先に二本ついているのだが。
まあ、耳って言うには細すぎるが……問題はそこじゃない。
一昨日聞いた溝口さんの静かな忠告が脳内に響き渡った。
──『女は陰湿でねちっこい』
「アイツらか」
十中八九、あのメイ&イロハの仕業だろう。犯人だと断定する要因はなく、特段困るわけでもない。故に犯人捜しをわざわざするまでもない些細な事。
恐らくこれは戦線布告なのだろう。『これからの標的はお前だ。覚悟しておけ』という残留思念をビンビンに感じる。
決して周りに悟らせなく、攻撃対象だけをチクチクと痛ぶっていく。そんなやり方にパターン変えしたのだろう。
そんな女子の姿を溝口さんは『陰湿』と評したのだろう。
「柊仁君、おはよ〜ございます」
「……っ! ああ、おはよう」
突然現れた楓から隠すように俺は靴に生やされた耳を引っこ抜いて、直ぐに履いた。
かなり強力な接着剤で付けられていたようで、靴の表面が剥げてしまったが、まあ目を瞑ろう。
「……? どうかしたんですか?」
「いや、何もないよ。もう時間もギリギリだ。早く教室に行こう」
「えっ? えっ?」
俺は楓の背中を押して、教室に向かった。彼女は終始戸惑っていたが、今は俺の前を歩いていて欲しかった。
──楓だけにはこんな酷い顔を見せる訳にはいかないからな。
★☆★☆★☆★☆
「教科書、三十三ページを開けー」
時は数学の授業にして、ヘナヘナ文字男先生の授業だ。因みに『ヘナヘナ文字男先生』の命名者は俺だ。
この学校で授業を受けるのはもう二ヶ月にもなる。流石に授業スピードには慣れたが、文字男先生の独特な字はどうしても慣れない。
まあ、俺たち学生はそんな逆境も跳ね除けて、勉強をしなくちゃいけないんですけどね──
「あっ……」
「どうした湊? 教科書でも忘れたか?」
「いや、教科者はある。大丈夫だから、心配してくれてありがとう」
小さな声だったが、周りが静かだったからこちらに何かあったのを気付いてくれたのだろう。照示の普段はぶっきらぼうなのにそう言うところで気を遣ってくれる所はとても好きだ。
だからと言って、今目の前で起こっている事をそのまま伝えても困らせてしまうだけだから、俺は口を閉じた。
「それじゃあ今日の一発目は湊。三十三ページ、問十ニの問題を答えてくれ。昨日の復習なんだから簡単だよな?」
「……しょ、少々お待ちくださ〜い」
『三十三ページ』では見つからないから、俺は前回までの記憶を引っ張り出して大体どこで終わったのかを探りながら、問十二を探し回る。
やがて、苦労の果てに問十ニに辿り着く事が出来て、奇跡的に一瞬で解き切った俺はなんとか事なきを経た。
──どうしてこんな事になっているのか? それはなぁ……ないんだよ。
本来教科書のページがある部分が全て切り取られていて、自分が何ページにいるかが分からない。故に、今みたいな騒動が起きてしまった。
畜生、あのアマ供……靴紐の件は俺の寛大な心で許してやったが、今度の今度は許さねぇ……。けど悲しいかな、これも奴らが犯人だと断定する証拠がないんだよなぁ。
どうせ、言いがかりだの、なんだで逃げられる自信しかない。割と敵に回した事を後か……いや、これも溝口さんのためだ。
誰よりも弱く、繊細であるが故にギャルをその身に降臨させて自衛している彼女が、こんな仕打ちを受けてしまったらどうなるのか──悪い未来へと繋がるのは想像に固いだろう。
「すう〜〜、はあぁ」
深呼吸をして、連中へのストレス諸々を自分の中へと押し流す。今はひたすら耐える時だ、湊柊仁!
てめえが厨二病期で培ってきた豪胆さを今発揮するんだ。どんな仕打ちをされても耐え忍び、どんな事をされても受け流せ。
この程度で屈していたら連中の思う壺。病んでいく姿を背後から嘲笑われるなんて絶対に嫌だね。
そうだ、俺ならいける。俺なら出来る。
妙に震えている右手も乾きを覚える口内もズキズキと痛むこの頭も全部気のせいだ。
なんて事はない。なんて事はないんだ……。
★☆★☆★☆★☆
「はははははハッハハハハハ」
面白い。面白い。面白い。面白い。面白い。面白い。面白い!
あの二人組が次は何をしてくるのか、どう俺に挑んでくるのか、それが楽しみで仕方がないね。
さあ、次はどう来る? 何をする? いつ来る、どこで来る?
また下駄箱に一杯の砂を詰めるか? バックの中にトカゲを入れ込むか? 靴の中に画鋲を仕込むか?
──俺はいつからかあの二人がする事、成す事が面白くなっていった。
だって考えられるかよ? 靴を履こうと下駄箱を開けたら大量に砂が出てきたんだぜ。ったく、女子二人でどうやって、しかも周りに気付かれないように入れたんだよ。
考えられるかよ? 何匹ものトカゲが俺のバックの中に入り込んでいて、中身をぐちゃぐちゃにしてくれていたんだぜ。わざわざあんなサプライズを仕掛ける為に、トカゲまで取りに行ってくれるとは俺は心底驚いたよ。大変だっただろうに。
想像の範囲外からの奇襲はいつしか俺の娯楽となり、彼女達は俺の暇潰しの相手になってくれたのだと思い始めてきた…………そう思わないとやっていけないんだ。
砂は当然ながら下駄箱から出てきて、床へとばら撒かれた。別にそれを掃除するくらいはなんて事ない。なんて事ないのだが……。
あたりも大惨事になる程の下駄箱の中に詰められていた俺の靴は当然ながら砂まみれであり、細かい砂は繊維の奥まで入り込んで、どれだけ洗っても取れなくなってしまった。
つまり、買い替えだ。別に金は父さんからの償い金で大量にあるから買う事自体に問題はない。
しかし、そういう事ではないだろう。
新品の靴と砂だらけの靴を並べて見た時に、俺は何とも言えぬ感情に押し潰されそうになった。
帰りの準備をしようとバックを開けた時に何匹ものトカゲがその中を這っていた。俺自身、特段爬虫類は嫌いでないし、トカゲは好きな方だ。
しかし、バックの中に残っていた荷物によって押しつぶされた一匹のトカゲを見た時、何とも言えない気持ちが俺の身体中を包み込んだ。
気付いたら小さな墓を作って埋めてやっていた。
人間の害意に他の罪なき動物達すら巻き込んだあの二人に黒い感情が芽生えて、その炎は俺自身を焦がしていく。
──自分に向けられた悪意の大きさが、見方を変えれば滑稽とすら思える仕返しは確実に俺の心を蝕んでいく。その感覚は嫌というほど味わった。
「ハッハはハハハッハハ」
だから、いつしか俺は少し壊れてしまったのだ。
目の前に広がる悪意を前に俺はただただ笑い尽くす事しか出来なかったのである。