判断ミス
今日は珍しく楓は休み。どうやら体調を崩してしまったらしい。
しかし、母親である早苗さんがいるから大丈夫、と連絡が来たから俺は普通に学校に来ていた。
──つまり、俺の昼飯──楓特製弁当がない。
その事に気づいた時は割とショックを受けたが、今は割り切って、空いた時間を有効活用しようと図書館に来ていた。
図書館は場所を知っていただけで来るのは初めてだからなのか、何故だか分からないがソワソワする。もしかしたら、まだ見ぬお宝への出会いの予感を感じているのかもしれない。
と、言うのもこの学校の図書館は割と広く、図鑑からライトなノベルまで雑多にある。
学校に置いてあるライトノベルはタイトル、表紙ともにエッなものは当然ながら置いていない。その上最近のものではなく、少し昔のものが殆どだ。
新刊を中心に置いてくれるのは助かるのだが、年代が後ろになればなるほど我が街の書店から姿が消えていくから、昔のものになると発見出来ていない神作が多くなる。
この図書館には見た感じ二百冊以上あるから、新たなお宝が見つかれば良いと思う。
そう思って目についた一冊の本を手に取り、俺は全体に目を通した。あらすじでは分からない、この本の全容を掴む為だ。
──しかし、内容が碌に頭に入ってこなかった。
目の前の本をとても読みたいし、実際に視界の中に文字は映っている。
しかし、視線は文字を撫でているだけであり、読み取って脳に刻み込んでくれない。
それは授業中も同様であり、教科書や板書に書いてある事も頭に入ってこなかった。
まるで脳内に別の何かが住みついていて、入ってくる情報を片っ端から蹴飛ばしてしまっている様な感覚だ。
いや、感覚ではない。実際にそうなんだろう。
──久しぶりにアレ……やる?
──おっ、良いねぇ。いつもの仕返しってことで、色んな子に協力してもらって派手にやろう。
昨日の放課後、偶然聞いた二人の会話。その部分が度々脳内に反芻して止まない。
リア充グループに籍を置く溝口さんに害意を持った二人はこれから碌でもない事をするだろう。
脳内に反芻しているのは、まるで神が俺に阻止をしろと警鐘を鳴らしている様だ。
しかし、俺では役者不足だ。神が俺を『溝口柚茉を救う者』に選んで、あの場に引き合わせたのだとしたら、大変な役不足だ。
俺には虐めを──人の悪意を止められる力なんてない。その勇気だってない。
もしも自分に火の粉が降り掛かったら、そう思うと人は他人の虐めに対して手出しが出来ない。今の俺も同じだ。
しかし、大丈夫だ。俺が動くまでもなく、彼女を救えるものがいる。逆襲にも遭わなくて、溝口さんが助けられて一番嬉しい人。
──南雲斗弥だ。
周りに聞かれても良い内容でないから、二人になれるタイミングを探しているが、今日は不幸にもまだなく伝えられられていないが、早く南雲君の耳に入れるつもりだ。
それに焦って伝えて、あの二人に気付かれると厄介だからな。もっと暗部で行われる可能性もあるし、標的が俺になる可能性もあるからだ。
こういう時にRainが繋がっていないと不便だ。いっそ楓を経由で伝えてもらおうか?
いいや、病人の楓に心配をさせるわけにはいかないか。学校に来たら伝えればいいだろう。
そんな事を考えている時に、ふと時計を確認すると授業開始の十五分前。ここにきてから十分ほどしか経っていない。
しかし、今まで一文字たりとも読む事が出来ていないから俺は教室に戻る事にした。
畜生、本が読めない日常なんて滅びて仕舞えばいいのに。まあ、状況が状況だから仕方がないのだけど。
俺はいつの間にか閉じていた本を、元あった棚に戻して教室へと移動した。
俺が教室に入る時、「次の授業は何であっただろうか」と呑気な事を考えている最中だった。
しかし、それも一瞬で吹き飛んだ。
教室内の空気がおかしい。変にピリついていて、下手を打てば爆発してしまう様な緊張感を伴っている。
その原因を探るために教室を見回すと状況を一瞬で理解する事が出来た。
──遅かった。いや、二人の行動が早かった。
どこか悲しそうな、しかし何も思っていなさそうな表情を浮かべている溝口さんと、中身がひっくり返った弁当箱を踏みつけているあの二人組の片方。
口では「ごめん、ごめん」と言っているが決して弁当箱から足を離そうとはしていない。
肝心な南雲君は目を見開いて固まっている、まるで何か信じられないものを見るかの様な目で。
「早く足、退けてくれない? 片付けられないんだけど」
「あら、ごめんなさいね。落とした挙句に踏みつけてしまっていたとは気付かなかったわ……ふふっ」
そうわざとらしく言うと、ようやく足を上げた。この教室にいる誰もが故意的にやっていたものだと感じられただろう。
それなのに南雲君は動かない。何をしているのだろうか?
「ちょっとメイ、弁償でもしたらどうなん?」
「そこまでする〜? イロハがウチのお菓子食べた時は何にもなしで許してあげたでしょ」
「それとこれとじゃ話が違くな〜い?」
ケラケラと笑い合う二人──メイとイロハというらしい。教室には二人の高い笑い声だけが響いている。
その間にも溝口さんはひっくり返された昼食を片付けている。南雲君はいつまでも動こうとしない。だから、俺が代わりに手伝おうとすると──
「自分でやるからいい」
「でも……」
「アンタは私に関わらないで」
目付き怖め、語気強めに拒否られてしまった。
表情はいつもと変わりはなく、無表情だ。しかし、その奥には確実に悲しみが含まれている様な感じがした。
そんな表情を見てしまったらこの助けのない状況において、自分すらも手を差し伸べてあげないのは何か違うと思った。
「ちょっとアンタ、聞いてるの?」
「…………」
俺は無理矢理にも彼女の手伝いをした。視線が集まろうが、どうだっていい。
ただ何となく、楓の大切な友達だから助けたいと思った。
──そう思った俺に、昔の俺が蘇ってしまった。あの図書館でに虐めを防いだ時と同じ様に、怖いものなんて無い性格が。
「こういうのは止めた方がいいんじゃないかな?」
「こういうのってどういうのかなぁ? わざとやった訳じゃないんだけど」
メイは白々しくも甘ったるい声でそんな事を言った。
昨日、聞いていた事はバレていない様だが、言い出してしまった以上、この場で打ち明けるしか道はない。
「昨日言っていたじゃないか、南雲君に近い溝口さんが気に入らないって。けど、南雲君に近付きたいのなら、こんな印象の悪いことはすべきじゃなかったと思うが?」
俺がそう言うと、まるで自分が怒られたかの様に南雲君の肩が跳ねた。
本当にどうしてしまったんだ? いつもの君は今の俺の様にではなく、もっと上手に振る舞える人じゃないか。
「聞いていたの……けど、ウチらは特に虐めるとは言っていなかった。偶々、溝口さんの弁当を溢してしまっただけ」
「虐める、とは言っていなかったが、仕返しとは言っていた。どちらにせよ、同じ事だろうに」
「その後の言葉を聞いていなかったのかな? 皆んなに協力してもらって派手にやろう、って言ったんだけど」
確かに言っていた。けどそれがどうした。
協力してもらって派手に仕返しをしようという話であった。深掘りすれば状況が悪くなるのは二人の方だと思うが……?
「仕返しはお返しを言い間違えちゃっただけ。いつも仲良くしてる子のパーティーを開くって言う話をしていたのを間違えたんじゃないのかなぁ?」
「そんな訳あるか」
何としても認めない気か……いや、当然か。
二人は南雲君に確信犯であったとバレて、心証が悪くなるのは困るだろう。それなら──
「勘違いして、溝口さんのヒーロー気取りたくなっちゃったんだよねぇ。仕方ない、仕方ない。高校生男子にはよくある痛い時期なんでしょ?」
──カッチーン。
メイのその言葉によって、俺の堪忍袋の緒が一瞬にして切り落とされた。
言おうと思っていた言葉が吹き飛び、ただ湧き上がる激情をぶつけたいという気持ちで脳が支配された。
「テメェ、口の聞き方に気を──」
「もうやめて! 私は……別に大丈夫だから」
「けどっ」
「お姫様は余計なことをされるのはを求めていないってよ。ヒーローさん♪」
メイがそう言った時、丁度予鈴が鳴った。まるでプロレスのゴングの様な役割を果たしたそれは、静寂の彼方へ散っていった。
「私の授業だ、皆の衆! って、何かあったのか?」
銀堂先生は教室の異様な空気に気付いてそう言ったが、誰一人としてその問いに答えることはなかった。
──当然ながら、その後の空気は最悪だった。




