からかい上手の一さん?
意識が微睡んで、ここが夢の世界なのか現実なのか分からない。
一定感覚で頭を優しく撫でられる感覚が俺の意識を落とそうとかかってくる。
「ふふ、可愛い。──ちょっとなら良いよね……」
そう聞こえた直後、乾いた唇が潤う感覚が襲ってきた。優しく何度も突っつくように押し付けられた。
それは何とも甘美で刺激的な感覚で、微睡んでいた意識が一瞬にして覚醒した。
「あれ、起こしちゃいましたか?」
楓はこてんと首を傾げて、小悪魔の様に微笑んでそう言った。畜生、やっぱり可愛いな!
「ああ……起きたよ。それで今、何をした?」
俺は自分の唇に触れながらそう聞いた。
流石に寝ている人にキスを迫る様な子ではないと思っているが、まさかな……。
「ふふふ、何をしたでしょうか?」
微笑みを絶やさぬまま、楓は自らの唇を指先で艶かしく触れた。
その行動が俺の脳内に緊急アラートを鳴り響かせる。まさかな……いや、まさかな!
「ふふ。──これですよ」
そう言うと、小悪魔さを取っ払ったいつもの笑顔に戻って、後ろに隠していた手を前に出してきた。その手に握られていたのは──
「リップクリーム……」
「はい、リップクリームです。湊君の唇を少し触ってみたらパッキパキに乾燥していたので塗っちゃいました」
「すうぅ……っ」
あっぶねぇ、超びっくりした。まさかの俺のファーストキスが、寝ている間のよく分からないタイミングに消費されなくて助かった。
そう言うのは然るべき時に然る相手とでなければならない。
「けど、このリップは私の物なので、一応間接キスにはなりますけどね」
「……///」
くっ、この小悪魔めぇ……。よくも、よくも………。があああ、反撃を、反撃をしてやりたい!
「けど、そんな事をしたせいで、次にそれを使う時は一さんが間接き、キスをすることになるんだからな!」
「私は寧ろそっちの方が嬉しいですよ。相手が湊君だから」
真っ直ぐ見つめられて、真面目に言われたもんだから思い切り被弾してしまった。顔の温度が急速に上昇して、赤くなっていくのを感じる。
というかなんでこの子は、そう恥ずかしい事を易々と言えるかな……。ある種尊敬の念を抱いてしまう……まさか楓は恋愛経験が豊富で慣れているのか!?
「今まで付き合った方はいませんよ。それに好きになった人も。正真正銘、私の人生で恋をして、こんなにも愛おしい人は湊君だけです。だからそんな顔をしないでください」
「……だから」
「だから?」
「だからどうして、そんなに恥ずかしい事を易々と言えるんだよおおおお」
それに顔に出ていたってマジ?本気で恥ずかしいやつじゃん。
「なんで言えるかですか。それはですね、私の中の湊君を好きな気持ちが溢れて抑え切れないからですよ」
「…………」
「それに、好きな気持ちをひた隠しにして伝わらずに終わるよりも、直接伝えられた方が私は嬉しいですからね」
もう何も言うまい。完全に主導権を握られている以上、俺に反撃の余地は残されていなかったらしい。
「湊君も私のことが好きになったら、遠慮なく伝えてくださいね。大歓迎ですから」
「じゃあ、一つだけ伝えたい事を……今回はありがとう」
「ありがとう?私、何かしましたか?」
「風邪で寝込んでいる事を察知して、この家に来てくれた事。死にそうだった俺を解放してくれた事。俺の心の内を読んで、優しく語りかけてくれた事。全部ありがとう、感謝している」
何となくだが、記憶が蘇ってきた。この家に入ってきた楓は水分を取らせてくれたり、汗でびちょびちょだった服を着替えさせてくれたり、ベットシーツを変えてくれたりしていた。それに──
──『小さな身体に溜め込んだ大きな感情を私にも分けてください』
昔の記憶を思い出す前に掛けられた言葉だが、脱水で意識が朦朧としていた時にも聞いた事を思い出した。
きっとその時に、俺は両親のことに関して話したのだろう。無意識的にでも他人に聞いてもらったおかげで、気分が楽になっていた。だから、『両親に会いにいく』なんて今までなら絶対にやらなかった事をしようと決心出来たのだと思う。
「別に良いんですよ、私だって湊君に助けてもらった身ですから。これでお相子です」
「そうかな……?」
「ええ、寧ろ私の方が得をしましたから」
「得?」
「はい、得です。今まで頑なに認めようとしてくれませんでしたが、あの時の湊君はやっぱり厨二病だったって分かりましたから」
きらりと夜空に輝くような笑顔を浮かべた楓に対して、マズイ事実に顔が引き攣っていく俺。
うふふと笑う楓はその可愛らしさとは裏腹に、俺の生殺与奪の権利を握った恐ろしい爆弾。ひとたび彼女が爆発すれば、俺の輝かしい青春時代が跡形もなく吹き飛ぶ。
──「厨二病だったなんて、草」「マジ?!厨二病だったなんてウケる」
思いやりの欠片も無い言葉の数々が脳裏を過ぎる。いや、楓がそんな酷い事をするわけが……。
「湊君、私〜湊君にやってほしい事があるんですけど〜♪」
脅し!?これに逆らったら、俺の高校生活が跡形もなく崩壊する!?
まだ五月の終わり。卒業までは大体二年と十ヶ月。その間、ぼっちで生活とか厨二病に戻らないと耐えられない……。それだけは何とか阻止しなければ!
「あー、えっと。いくらお望みでしょうか。お金だけは無駄にあるので何なりとお申し付けください。だから、学校の人に告げ口はお止めください。この通り」
俺はベットから飛び降りて高速土下座。男にはやらねばならない時があるのだ。俺にとってはそれが今だ。
「…………」
「か、楓さん?」
「……湊君は私のスカートの中を覗こうとしているのですか?──湊君のえっち〜♪」
「は、はぁ〜?べっつにそんなことしようとなんかしていませんし!」
「必死になるところが変に怪しいですね。これはやっぱり確信犯ですか?」
楓は俺のメンタルケアの為にベットに腰掛けながら俺と話をしていた。
楓の服装は制服でミニスカートだ。ベットから飛び降りて、頭を下げた俺は覗こうとしている様にしか見えず、うまく否定が出来なかった。
「…………」
「……ふふふ、あははは。湊君は本当に揶揄い易いんですから。湊君がそんな事をする様な人ではないって分かっていますよ」
「か、え、で〜!」
「あはははは」
俺は紳士で、決して女には手を上げない素晴らしい男だ。それなのに俺の左手は溢れ出る力を解き放たんと震えている。
「──それで、やってほしい事ってなに?」
俺は暴れる左手を必死に抑えて、話題を元に戻した。
「あら、引っ込めちゃうんですか。一回くらいは殴ってもらっても良かったんですよ。大切な人生経験の一つです」
「楓は一体どこに向かって進んでいるんだ?」
「まあ、そんな事はどうだって良いですか。それでやってほしい事ですが、もうやってくれているのでやっぱり何でも無いです」
「もうやっているってどういう事?」
「呼び方ですよ。改めて呼んでもらおうと思ったら、怒りの気持ちで勝手に解放された様なので。私も心の準備はできているので、この前のような醜態は晒しませんし」
楓の言っている事は本当で、楓と連呼してみたが、照れる事はなかった。
楓の弱点がまた一つ減ってしまった。俺は悲しいぞ、反撃が出来なければやられっぱなしになってしまう。
「その程度でいいなら、いくらでも呼ぶけどさ」
「じゃあ私も柊仁君って呼ばせてください」
「別に構わないけどさ……」
女子に下の名前で呼ばれるのなんていつ振りだ?
小学校?マジか……。
「しゅ……しゅう、しゅうと。柊仁君!」
うーん、なかなか良いな。照れまじりに名前を呼ばれるとは。
と言うか、この子の恥ずかしがるポイントが分からないな。あのセリフが大丈夫で、名前がダメとは。
「……柊仁君、これからもよろしくお願いします」
「うん。よろしく、楓」
俺と楓は改めて向き合い、そう言った。それと同時にちょうど空調が動きをやめて、部屋が静かになった。
突然静かになった部屋で向き合っている子の状況が何やら気恥ずかしくて、俺たちは視線を逸らした。
流石の楓も恥ずかしかったようだ。頑張って隠していたが、指の間からはほんのり赤く染まった頬が覗いていた。
「楓、一緒に両親のところに行ってくれないか?一人だとやっぱり不安だ」
「いいですよ。貴方が私を求めてくれるのなら何処へでも」
そんなこんなで俺たちは両親の元に向かった。




