堰き止めていた本当の気持ち
「あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛、ちっくしょう」
本日火曜日。俺は学校を休んでベットに臥していた。
昨日、大雨に遭った時に格好つけて、楓にブレザーを貸して過ごした所為で風邪を引いた。それもかなり症状が酷く、喉は痛いし、高熱で視界がくらくらとして、まともに立っていられない状態になってしまっていた。
更にかなり汗をかいているのにベットから動けないから脱水症状も現れていて、正直死にそうだ。
「あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛」
今の俺には呻き声を上げるしか出来ない。今世最後の声だ、盛大に上げて少しでも俺が存在していたと世界に刻み込まなければ。けれど、世界に刻み込んだとしてもそれに気づく人は誰も居ないのだけれど。
「ごほっ、ごほ」
それにしても『咳をしても一人』とはよく言ったものだ。作者も俺の様に、反響してくる自分の咳を独り悲しく聞いていたのだろうか。
苦しい、悲しい、苦しい、悲しい。その気持ちが咳をするたびに襲ってくる。
「寂しいなぁ゛」
こんな気持ちを感じるのは久しぶりだ。楓家の温かさに触れてから一人である事に悲しみの感情を抱く事が多くなってきたが、まさかここまで溢れてしまうとは思わなかった。
きっと風邪を引いて身体が弱っていしまっているのも関係しているのだろうか。
「ヤバい。死ぬ………」
俺は猛烈な吐き気と身体のだるさに包まれながら意識が薄くなっていった。
★☆★☆★☆★☆
トントントンと小気味良いリズムが頭の中に響くのを感じて、俺の意識が水面に上がる様にゆっくりと浮上してきた。
「あれ?俺は死んだんじゃ……」
死ぬ前よりも涼しくて、吐き気も無くなっている。喉の痛みも殆ど引いているし、汗でびちょびちょだった服も違う。
環境がさっきよりも断然良くなっている。
けど、俺には足がついているし、身体が浮いているわけでもない。それに俺の視界に広がるのは、さっきと変わらず質素な部屋だ。決して天界とかではない。
「あれ?湊君、起きていたんですか。まだ三十分ぐらいしか寝ていませんよ」
「……一さん?」
「はい。一楓です」
ドアが突然空いたと思ったら、俺の目の前に天使様が現れた、それも制服姿の。
「どうしてここに……?というかどうやってここに!?」
「あれ?湊君、記憶が吹き飛んでいますか?」
「記憶が吹き飛んでいる?」
「あれ、こりゃ重症ですねぇ。意識が朦朧としていたからでしょうか?それとも泣き疲れてしまったからでしょうか?」
「泣き疲れた!?俺は一体何をッ?」
俺はどんな醜態を楓に晒したんだ?──分からない、吐き気と共に落ちていった意識が何をやらかしたのか分からない。
「記憶が無くなってしまったのならもう一度言いますが、鍵はちゃんと閉めないとダメですよ。とは言え、鍵がかかっていたら私はこの部屋に入れる事もなく、湊君はお陀仏でしたけどね」
どうやら助けてもらったようだ。普段は鍵の閉め忘れなんかしないから既に風邪を発症しかけていたのか、単純に不注意だったのか分からないけれど感謝だ。危うく死ぬところだった。
「来てくれてありがとう。本当に助かった」
「いえいえ。Rainの既読なし、学校への連絡もなしとなれば、何かあった事は自明の理ですからね」
「所でどうやって家が分かったの?言った事はなかったと思うけど」
「銀堂先生に聞きました。そうしたら心配だから様子を見にいってくれと頼まれました。元々学校を休んで来る気でしたけど、特別に公欠になる様に手配してくれるとの事でしたので堂々と」
「そっか……それで俺は何をしたの?」
とにかくそれが気になって気になって仕方がない。
しかし、そんな俺の気持ちとは裏腹に楓は手を俺の顔の前に突き出して首を振った。
「とりあえずお粥を食べましょう。今は薬で良くなっているだけですから、しっかり栄養を摂らないと」
「えー」
「はい、口を開けてください。あーん♪」
「自分で食べられるけど……。あ、あーん。──あっちゅっ」
「ふふふ、可愛い〜」
「こ、この///」
楓に綺麗に遊ばれてしまっている。しかし、体調が万全で無い俺には反撃する余地はなかった。
「ふーふー。はい、あーん」
「……あむ。美味しい……」
「お口にあった様で良かったです」
さっきは熱々で味が良く分からなかったが、今度はしっかりと分かった。
鶏がらスープの素で味付けされた卵とネギのお粥は優しく食欲を刺激して、空腹だった事を思い出させてくれる。次へ次へと食べたくなる味だった。
「美味しい。美味しい!」
「そんなに急がなくてもお粥は逃げていきませんよ。体調も順調に良くなっていますね。この家に来た時の湊君の状態は本当にひどかったですから」
「どれくらい?」
うーん、と顎の下に指を当てて少し考えた後、楓は口を開いた。
「服もシーツも汗びちょびちょで意識がはっきりしていなかったですね。一瞬、本当に死んでいるのかと思いました」
「実際、死にかけてたからね」
本当に意識が薄まっていく前のあの瞬間、死んだと思っていた。死へのタイムリミットは近かったのだろう。
「何でエアコンも点けず、水も飲まずでいたんですか?」
「いやぁ、お恥ずかしながら、起きた時には体調が悪すぎて動けなかったんだよ。だから、部屋を涼しく出来ず、水も飲めずでね」
「だから風邪を引いてしまいますよ、と言ったのですよ」
「面目ない」
実際、あの楓に自分のブレザーを着せた行動に悔いはない。彼女が性欲に飢える野郎どもの目に晒されるのを回避するのは、風邪の予防に比べれば何倍も重要な事だ。
しかし唯一の誤算は、引いた風邪の重症度が恐ろしかった事だ。
「自己犠牲をしてまで助けてくれる所もカッコいいですけどね」
「お、おう」
今日の楓はやけに恥ずかしい事を言う。いや、いつも通りか……?
「ただ、それとこれとは別です。守ってくれるのは嬉しいですが、湊君が傷つくのは見たくありません」
「ごめん」
「謝って欲しいのではありません。言ってください、何かあったら助けて欲しいと」
「今回は動けなくて……」
「今回に限ったことではありません」
楓は何を言っているんだ?まるで俺が助けを求めている、と思っているような口ぶりだが……。
「寂しい夜には電話をかけてください。温もりを感じたいなら呼んでください。湊君が私を求めてくれるのであれば、いつでも駆けつけます」
「……!何でそれを知って……」
まるで最近の俺が家族の温もりが恋しく、寂しくなっている事を知っているような……。
「私は絶対にあなたを一人になんてしません」
「…………」
「嬉しい時には手を取りあって喜び合い、悲しい時には泣き合いましょう。大きな感情を一人で抱え込まないで二人で分け合いましょう。そうすればどんなことだって乗り越えていけるはずです」
楓の優しい言葉が俺の心を優しく撫でる。心にあった大きな傷を癒していく。
「う……うう……ッ」
目から涙が溢れ出す。涙はあの時流し切った、そう思っていたはずなのに。
何故だか涙は流れ続けて、止めたいと思っても止まらなくて……。
「今までよく我慢しましたね。もう我慢しなくていいんですよ」
今まで堰き止めていた感情が溢れ出してくる。
一人にしないで、寂しい、悲しい、置いていかないで、嫌だ…………一人は嫌だよ。
「小さな身体に溜め込んだ大きな感情を私にも分けてください」
「さびし……かった。寂しかったんだよ!苦しかった。明けない夜が俺の意思に反していつもやってくる。嫌だった、嫌だったんだよ!一人は、一人は……」
あの時叫んだ言葉が脳裏に蘇る。あの時の光景が脳裏に浮かび上がる。
目が、耳が、心があの時を覚えている。あの幸せで、温かくて楽しい日々が崩れたその時を──。




