甘い場面にはちょっぴり刺激も必要かしら
『一』と『ー』が非常に判別しづらい事に気付いた今日この頃。
「本当に、一さんは何も食べないんだね」
「はい、あまり食べる事が好きでないと言いますか、食べられないと言いますか」
「へぇ。大変だね……けど、その割には料理上手だよね」
一昨日食べたお弁当にはそれぞれが美味しく感じられる様に工夫が施されていた。食べる事が好きでないのに、その辺のポイントは理解している様だった。
「食べられないのは昔から、って言うわけじゃないんですよ。ほんとここ数年の話なんです。だから、特にここには栄養が行き届いていて……って私は湊君に何を話しているんでしょう」
話している途中にその豊満なバストの下に手を回した楓は、急に我に帰ったかの様にバッと手を退けた。
本当にそういうのは刺激が強いからやめて欲しいです……。
「とにかく昔は食べる事が大好きだったんです。だから、お料理の練習も沢山していたんですがね……」
楓の四肢や胴回りが異常に細いのはそういう事だったのか。食べたいけど食べられない……とても辛いだろうな。
「けど、今は別に辛く感じていませんからそんな心配そうな顔をしないでください」
「顔に出てた?」
「はい。物すっごく」
「少し気になったんだけど、何の所為でそうなったのか、知っているの?」
「知っていますよ。けど、まだ湊君には教えてあげません」
口の前に指で十字を作り、某うさぎの様な口になる楓。可愛い。
「いつか教えてくれるのを待っているよ」
「はい、お待ちください」
今は伝えられないと言われたのならば無理には聞かない。いつか言いたくなってくれるまで待とう。俺だって今は楓に言いたくない事があるしな。
「ところで早苗さんは?一さんが押し出していってから戻ってこないけど」
「む。私よりもお母さんの方が良いって言うんですか?湊君は年上好きなんですか?」
「いや……そういう訳じゃないけど。早苗さんに遊ばれる一さんがいつも以上に可愛かったから」
まあ、普段から最高潮に可愛いんですけどね。やだ、俺ったら楓の事を溺愛しちゃっているの?
「呼び方が気になります……」
楓はむすー、っと不機嫌を体現する様な表情を浮かべた。
「むすー」
「それ口で言うのね……」
「むすー」
「ほら、一さんのお母さんを一さんに対して、お母さんって呼ぶのに違和感を感じたから、早苗さんって言っているだけだよ」
「むすー」
これは名前で呼ばないと『むすーbot』になる予感。なんだ?むすーbotって。
これは心を決めて言うしかない。男を見せろ!湊柊仁。
「かっ、かかか、かえ、で……さん」
「もう一回」
一回目は全くダメだったが次こそは!
「楓ッ!」
「……すぅ…………」
楓と向き合い、目線を合わせての名前呼び。これは決まった……って滅茶苦茶恥ずかしいじゃねえか!
「……」
それに、楓が何も言わなくなってしまったのがこの場の気まずさを加速させる。
「あのー、楓さん。呼ばせたんだから何か反応が欲しいのですが……。もしかして気持ち悪くて声が出ない的な?」
「……い、いえ、違います。ちょっと恥ずかしくなってしまって……。ありがとうございました」
「まあ、これぐらいなら別にいいけどさ。楓はどっちが好み?」
「楓って呼んで欲しいです……」
「楓……分かった、楓。よろしく、楓。」
「何回も呼ばないでくださいよ……恥ずかしいです」
あら、これまた可愛らしい反応。早苗さんが言っていた事がよく分かる。恥じらう楓、面白いから構いたくなる。
もう名前呼びには慣れた。
「ねえ楓。あのさあ楓。もしもし楓。こっち向いて楓。どうしたの楓」
「もう!やっぱり、当分は一呼びで良いです!」
「あはは。ごめんごめん」
「全く、思ってもないことを」
俺はつい楓を揶揄うのが楽しくて、気付いていなかった。ドアの隙間からこちらを覗き込む影が一つ、いや二つある事に。
「二人とも、出来立てカップルって感じで初々しくて良いわね〜」
「ちょっとお母さん!部屋から出てこないでって言ったでしょ!」
「私は来ないようにしていたのよ。けどね、私がいなかったら大事な大事な湊君が悲惨な目に遭っていたのよ」
「「悲惨な目?」」
「もう解放していいわね?私、もう疲れちゃった〜」
そう早苗さんが言った直後、バゴンと破裂音の様な音が鳴ったと思ったら、俺は鞘がついた包丁を片手に持った雄牛に押し倒されていた。何を言っているのか分からねぇと思うが、俺も何をされたのか分からなかった……。
まあ、率直にいうと虎みたいな顔の大柄な男性が仰向けに倒れる俺の上に乗っかっていて、鞘付きの包丁を首に押さえつけていた。
これどう言う状況?怖、怖すぎなんですけど。人生二度目の死線?そんなもん、求めてないんだが……。
「貴様ァァァ、俺の可愛い娘に手ェ出してんじゃねえぞ、オラアアア!!!」
「ひええええええ」
「お父さん止めて!」
「ゴフッ」
大柄な楓パパ、小柄な楓式タックルで吹き飛んでいった。勢いはなさそうだったが、娘の攻撃はパパには大ダメージだ。
「止めないでくれ、カエちゃん。俺はカエちゃんに寄り付く羽虫を殺虫するだけだ」
再び雄牛の如く迫ってくる楓パパ。ちょっ、吹き飛んだ衝撃で包丁の鞘外れてるから、ガチで危ないから!
「ハッ、ハッ、ハアッ。チッ、しぶとい」
楓パパの三連突きをギリギリで回避する。ナイスだ、俺。避けれなかったら死ぬぞ。
「死ねえええぇ……え゛え゛え゛え゛ッ!?」
包丁片手に突進をしてくる楓パパの巨体が上空に打ち上げられた。俺や楓がやった事じゃない。
「ありがとう、お母さん」
「えぇ……」
早苗さんがアッパーカットを放ったが故に楓パパが吹き飛んだらしい。夫婦の体格差、軽く見積もっても二倍くらいあるぞ。どうなっているんだ……。
「お母さん、昔女子ボクシングやっていたそうですよ。『アッパーカットの早苗』って当時は一部の間で有名だったらしいですよ」
「えぇ……」
そこはかとなくダサい異名はまだ良い。あの、のほほんとした早苗さんがボクシング?それに異名が付くほど強かった?
冗談なら早く伝えて欲しい。まあ、目の前に広がっているこの光景が何よりもそれを事実と証明しているのだが……。
「ごめんなさいね、騒がしい夫で」
「いえ、何事もなかったので大丈夫ですが……そうやって沈静化出来るのならば最初からやって頂けていたら有り難かったのですがね……」
さっきの『もう疲れちゃった〜』は多分演技だろう。何のためにそんな事をしたのやら。
「ん〜、武雄さんは確かにちょっと豪快な人だけど分別が無いわけでは無いのよ……ほら〜」
早苗さんが床に落ちた包丁を拾い上げて、自分の手を刃に押し付けた。すると、刃はキリキリと音を立てて柄の方に沈んでいった。
「ジョークグッズですか」
「そう、楓が湊君の話をする様になって直ぐの時に、武雄さんが買って来ていたのを見たのよ。父親らしい事に憧れていたから一回くらいは使わせあげたかったのよね〜。」
「玩具の包丁で刺し殺そうと飛びついていくのは父親らしい事でないとお伝えください。本当に死ぬかと思ったのですが……」
「ごめんなさいね。お詫びにご飯、食べていってね〜。楓はもっと固く胃袋を握っちゃいなさいね、私は武雄さんをベットに運んできま〜す」
九十キロはありそうな楓パパ、もとい武雄さんを早苗さんは最も容易く持ち上げて部屋から出ていった。
あの細腕の中にどれほどの力を隠しているんだ……。
「人は見た目で判断出来ないね」
「そうですね。まあ、私のお母さんは少し特殊な部類に入ってはいますが。──それはそうとしてご飯です。折角の機会ですし一緒に作りませんか」
「……一緒に作る?この俺に本気で言っているの?」
「お料理苦手ですか?」
「…………」
──湊柊仁、高校一年生。
欠点、絶望的な料理センス。
原因、コンビニ飯に頼りきっていたから。




