第三話 眩しいほどに夕陽が見える始まりの場所で その5
いつの間にか、六月が終わった。
もう気温も高くなり始め、普通に過ごしているだけでも汗をかくほどだ。
まだ梅雨は明けず、湿気のせいで風が吹いても爽快感を一切感じない。
それでもまだ、風が一切ない室内よりは屋上で過ごす方が幾分かマシだった。
「渚もかなり外に慣れてきたよな」
「はい。茜ちゃんみたいに、とはいかないですけど」
茜が作り上げた『氷の生徒会長』という肩書きのおかげで、学校生活で生徒たちと会話をせずに過ごしていても誰も不審には思わない。基本的に渚が会話をするのは奏汰を除いて、生徒会の役員か教師ぐらいだ。
今のところ、渚の二重人格について勘づいている人はいないはずだ。あの悲惨な茜のモノマネはあの時以降はしていないし、ほんのわずかな見た目の違和感などの噂も聞かない。
この調子なら、大きな失敗をしない限りは文化祭をやり遂げることも夢ではないはずだ。
「次の仕事はなんだっけ?」
「えっと、もう一ヶ月後に文化祭が控えているので、機材の準備の仕上げですね。私たちの仕事は運営ではなく、舞台を整えることですから」
「お、言うようになったじゃんか」
「茜ちゃんの受け売りですけどね」
少し照れ臭そうに笑いながら、渚は空になった弁当箱を手ぬぐいで包んだ。
弁当と言えば、渚の料理の腕も雀の涙の一部ほど上達したのだ。
なんと、不味いという感想が言えるようになったのだ。今までは口に入れるとたちまち意識が吹き飛ぶ兵器だったのだが、今は最低限料理としての形を成すようになった。
つい先日まで首が座ってすらいなかった赤子が立って歩く瞬間を見た両親はきっと今の奏汰と同じような感覚なのだろう。
「俺も出来る限り手伝うからさ。頑張ろうな」
「はいっ!」
思ったよりも早く昼食を食べ終わった奏汰たちは、弁当を片付けて立ち上がった。
前に日葵が屋上に訪ねてきたこともあるし、文化祭が近づいたらそろそろ屋上で食べるのは避けるべきかもしれない。
そんな危惧を奏汰がした直後だった。
あのときと同じように、ガチャリと屋上の扉のドアノブが回った。
入ってきたのは、やはり彼女だった。
「こんにちは、一色先輩」
奏汰は後ろにいる渚を庇うように立つ。
「悪いな。また屋上にいて」
「いえ、今回はそれについて何かを言うつもりはありません。逆にちょうどよかったです。私も話がしたかったので」
「俺に話があるのか?」
「一色先輩と、そこにいる藤沢先輩に、です」
奏汰の後ろに隠れるようにしていた渚へ、日葵は冷たい視線を送った。
嫌な予感がする。もし、渚の秘密に気づくとしたら、まず日葵だと思っていたからだ。
問題は、どれだけ日葵が核心に近づいているかだ。
「ここ最近、私は違和感を覚えていました」
その切り出しを聞いて、奏汰は聞く姿勢を取った。余計なことを言って日葵の知らない情報まで口にしないためだ。
「最初の違和感は、一色先輩が生徒会に来てから藤沢先輩の仕事のスピードが急激に落ちたことです。体調が悪いようには見えませんでした。それなのに、今までの半分程度の仕事しかこなせていません」
奏汰が生徒会に来てから茜が仕事をしたのは最初の仕事のときだけだ。それ以降は渚がやっているため、奏汰のサポート付きで仕事を進めていた。外観は渚が奏汰に教えているように見えるはずなので気づかれないつもりだったが。
「それは俺が分からないことを訊いて仕事の邪魔をしちまったからじゃないのか?」
「藤沢先輩はそれくらいで仕事が遅れるような人ではありません」
自信を持って、日葵は断言した。
「次に、お弁当です。一色先輩たち、ここ二週間はほぼ毎日ここで食べていますよね?」
「え、なんで知ってるの?」
「それは別にいいじゃないですか」
よくはないのだが、そこを掘り下げても意味がないだろう。
奏汰は詮索せずに日葵の言葉を待つ。
「藤沢先輩は、お箸は右手で使います。左手で使うところなんて、見たことがありません」
「見間違いじゃないのか?」
「私が藤沢先輩のことをどれだけ見てたと思うんですか。そんな見間違い、あり得ません」
前に、渚と茜では箸の持つ手すらも違うという話をしたことを奏汰は思い出した。
どうしてそこまで日葵が知っているのかは気になるが、彼女から感じる圧力に奏汰は対抗できない。
奏汰に鋭い視線を向けながら、日葵は続ける。
「他にもあります。藤沢先輩、先日、ピーマンを使った料理がおかずにありましたよね」
「え? は、はい」
渚は戸惑いながらも頷いた。
「藤沢先輩は、どんな料理でもピーマンがあれば必ず最初に食べるんです」
「え、そこまで見てたの?」
「それも別にいいじゃないですか」
一気に日葵が健全な女子高生なのかどうかが怪しくなってきた。
しかし、奏汰が何かを言う前に日葵は畳み掛ける。
「今言った以外にも、今までの藤沢先輩とは違う点がいくつもあります。まるで、人が変わったように唐突に」
奏汰と渚は同時に固唾を飲んだ。
日葵ははっきりとした口調で続ける。
「これらの変化は全て、一色先輩が来てからです。藤沢先輩の変化に、一色先輩が関係していることは間違いありません」
「……、」
もう、わかっているのだろうか。
渚の二重人格という事実に気づいてしまったのだろうか。
「考えられる理由は一つだけ……です」
ふと視線を動かす。渚の心が怯えていた。
核心に迫ろうとしているのか、一気に日葵の口の動きが鈍くなる。
「…………どうして、なんですか……?」
言いだすのが辛いのか、日葵は体をわすかに震わせていた。
それでも、彼女の中にある勇気を振り絞って、日葵は必死に声を上げる。
「どうして、もっと私を頼ってくれないんですか……!?」
「……え?」
「あれだけ完璧であるからこそ、きっと藤沢先輩は心を休ませる場所が必要だったに違いありません。ずっと見てきた私には分かります。藤沢先輩は学校で一切気を緩めません。『氷の生徒会長』と言われてしまっているからこそ、逆に気の置けない人を身近に置くことが出来なかった。でも、それで選ばれるのが一色先輩だなんて、納得できません……ッ!」
「…………は」
思わず、というような短い声が出た。
日葵は悔しそうに目に涙を浮かべて奏汰を睨んでいた。まるで、片思いの人をポッと出の誰かに奪われてしまったかのように、頬と瞳を赤くして。
今すぐにでも殴れるほど、拳を固く握り締めて。
そこまでしてようやく、奏汰は気づいた。
つまり、だ。この雨宮日葵は、奏汰が渚の彼氏になったから、奏汰の前でだけ渚が甘えていると思っているのだ。
真実とはかけ離れた、拍子抜けするような結論。しかし、そうして奏汰は気づく。
自分が、当たり前のことを忘れていたことに。
「これが、普通なのか……」
そうだ。そうだった。
心の色が見えていないくせに、日葵の考えを知ったような気になっていた。
どうして、人と接することのない生活を続けてきた理由を忘れていたのだろう。渚と過ごす時間が増えて、すっかり忘れてしまっていたのだろうか。
人が何を考えているのかだなんて、分かるわけがないのだ。
ましてや、奏汰や渚という異常に身を置く人間からは。彼らの感覚を分かるわけがないのだ。
だって日葵は、普通の高校生なのだから。
人が変わったように見えたところで、『二人いる』という結論には達しないのだ。二重人格だなんてものが身近にあるとは思わないはずなのだ。
当たり前だ。これが普通だ。今までが異常だったのだ。
渚が二重人格を打ち明けた奏汰とやよいはともに、共感覚という異常に身を置いていた人間だった。だからこそ、異常な世界の住人である渚を簡単に受け入れ、理解することが出来たのだ。
しかし、そんな異常からは遠く、『普通』を当たり前に生きてきた日葵には、その発想自体がないのだ。ゆえに、彼女の中で必死に絞り出した結論がさきほどの言葉だ。
ならば、どう答えればいい。
はいそうですと返事をして、恋人の振りでもするのか。それとも、正直に言って納得してもらうのか。いや、後者はあり得ない。日葵は茜に憧れているのだから。
あの背中を追って、努力を続けてきたのだから。だからこそ、悔しかったのだろう。
「私の方が頑張ってるのに。私の方があなたを見てきたのに……ッ! ずっとずっと、私はあなたみたいになりたくて……ッ‼」
初めて奏汰は、心の色が見えない他人の気持ちのほんの一部を理解できた。
認めてほしかったのだ。憧れていた人に。誰も近づくことの出来ない『氷の生徒会長』の隣に立つために、必死に努力をしてきたのだろう。
そうして副会長になって、あと一歩のところで出てきたのが奏汰だ。
嫌われて当然だ。喉から手が出るほどに恋い焦がれたその席に、誰かも知らない男が図々しく腰かけたのだから。
心の色は見えていないはずなのに、まっすぐな日葵の想いがこれでもかと奏汰の心を殴りつけた。暴力的なほど、力強い想い。
はぐらかすことはできないだろう。その場限りの嘘でごませるような相手ではない。きっと、何かしらの形で決着をつけなければ日葵は決して引かないだろう。
それがわかっているのだろう。渚は、ゆっくりと日葵の前へ出た。
日葵の想いに応えなければならないと、そう思ったのだろう。
それはさながら真剣同士の決闘だ。
張りつめた空気。遠慮など一つもない、戦いそのもの。
奏汰は体が震えていることに気づいた。腕を見ると、鳥肌が立っていた。
だが、それはこの空気に圧倒されたからでも、日葵の眼光に恐怖したからでもない。
一歩として後ろに引かず、戦おうと前へ出た藤沢渚の強さを、全身で感じたからだ。
そして、ついにその剣が鞘から抜かれた。
「私は、あなたの知っている『藤沢渚』ではありません」
「は……?」
呆気にとられたような顔だった。
それでも、渚は躊躇いなく剣を振るう。
「私は、小さい頃に虐待を受けて育ちました」
必死に、もがくように。辛い思い出を掘り返しながら。渚は全てを伝えた。
二重人格。藤沢茜。一色奏汰。共感覚。藤沢茜卒業計画。文化祭。
渚がここにいて、奏汰がここにいる理由を、一つずつ。
日葵は、ただ黙って聞いていた。あまりの衝撃に、視線が泳いでいた。
全てを聞いてもなお、日葵は言葉を発さない。きっと、渚の言葉をすぐに消化できなかったのだろう。耐えるのも辛いような沈黙が、屋上を満たしていた。
「…………い」
日葵がようやく、口を開いた。
上手く発声できなかった日葵は、もう一度改めて言う。
「……気味が悪い」
雨宮日葵はごく普通の高校生だ。
だからこそ、そんな普通は非情に、冷酷に、異常へと突き刺さる。
「……気持ち悪い。気色が悪い。不快で、不愉快で、反吐が出る」
冷たい、凍てつくような棘が。青い心へ向かって、襲い掛かる。
「二重人格? 共感覚? そんなものが当たり前な世界で今まで生きてきたんですか。頭おかしいですよ。狂ってる」
化け物と対峙したかのような表情で、じりじりと日葵は後ろへ下がる。
「じゃあ、私が憧れていた藤沢先輩は、あなたのもう一つの人格だったっていうんですか?」
「……はい」
「――ッ!!」
奏汰の元まで、日葵が歯を噛みしめる音が聞こえた。
ギリギリと湧き上がる感情を嚙み潰しながら、日葵は呟く。
「……めない」
てのひらに跡がつくほどに、日葵は拳を握りしめる。
「そんなこと認めない! 私は『あの』藤沢先輩に憧れて生徒会に入ったんです! ずっとあの人の背中を見て、あんな風になりたいって努力してきたんです! それなのに、本物の藤沢渚はあなた……? ふざけるなッ!」
駄々をこねる子どものような、感情に任せた言動。
目尻に浮かぶ涙を零さないように必死に顔に力を入れて、日葵は叫ぶ。
「あなたは藤沢先輩なんかじゃない! 藤沢先輩は、常に冷静で、誰よりも優秀で、正しい厳しさで誰にも平等に接する、そんな人だった! 誰にもない強烈な魅力に私は惹かれたんです!」
脳裏に焼き付いた茜の姿を思い出しながら、日葵は叫び続ける。
「あの人が藤沢先輩です! あなたは、藤沢先輩なんかじゃない!」
体の芯まで震わせるような声が、痛いほど渚へ向かう。
「私の憧れた藤沢先輩が偽物だっていうのなら、私は……ッ!」
奏汰は直感的に、寒気を感じた。
慌てて、日葵へと近づく。
「私は……ッ!!」
「お、おい待て――」
そんな奏汰の声は、日葵には一切届かなかった。
「私は、あなたを認めないッ‼」
怒りのあまり、心にもない辛辣な言葉を言ってしまうということは多々ある。だが、それでも、決して言ってはならない言葉は必ずある。
当然だが、その言葉は人によって大きく変わる。他人が傷つく言葉でも、奏汰の心には一切響かないということだって、当たり前にある。
そんな中、日葵が放った一言は確実に渚の心を抉り取る、最悪の一撃だった。
「………、」
沈黙。まるで、台風が過ぎ去ったあとの凪のような。
世界すらも静まり返っているかのような静寂。
渚の顔には、一言で言い表すにはあまりにも多くの感情が浮かび上がっていた。
ただ、それが全て見えている奏汰には感じ取れてしまうのだ。
奏汰の気すら狂ってしまうかと思うほどに、青い海が濁っていくのが。
渚の心が、壊れそうなほど苦しんでいるのが。見えて、しまうのだ。
ここで渚の心が折れてしまっては、全てが終わってしまうかもしれない。また茜の奥に隠れて、全てを諦めてしまうかもしれない。
手を握ってあげたい。大丈夫だと、支えてあげたい。
そう思って、奏汰が渚の手を掴もうとした瞬間だった。
(……あか、ね…………?)
奏汰の視界に、赤い心が映ったのだ。
渚の心に気を取られて、その後ろにいる茜にまで意識が向かなかった。茜の心が発する言葉に出来ない感情を奏汰は必死に感じ取る。そして、蠢く茜の赤い心が伝えようとしている意図にようやっと奏汰は気づいた。
一歩後ろへと下がった奏汰は、改めて渚の顔へ視線を向ける。一目瞭然だった。
渚の眼は、死んでいなかった。その双眸の光はまだ、消えていなかったのだ。
力強く、抗おうと。立ち上がろうと、もがくように。
濁ってもなお、傷ついてもなお、渚の海はそこにあった。渚の心は折れていなかった。
こんな状況で茜が表に出てこようとしない理由はこれだったのだ。渚が、雨宮日葵という茜しか認めない存在を乗り越えてくれるという期待。
だからこそ、奏汰にも促したのだ。見守るという選択肢を。
音を忘れた世界の中で、渚は日葵をまっすぐに見つめていた。
逃げないという意思を示すように。
「それでも、構いません……!」
震えた声で。されど、譲れないものを守るように。
「まだまだ私は茜ちゃんみたいにはなれません。でも、だからって茜ちゃんに頼り続けるわけにはいかないんです」
徐々に、その声は力を増していく。
「私が弱いことは知っています。努力が足りないのも知っています。あなたに認めてもらえないのも、仕方ないと思います」
渚は「それでも」と続ける。
「あなたよりもずっと前から。あなたよりもずっと強く。私は茜ちゃんに憧れてきたんです」
瞬きをしていない渚の瞳から、涙が溢れ出していた。
「茜ちゃんはなりたい『私』そのものなんです。弱かった私が望んだ、『完璧な藤沢渚』なんです。茜ちゃんみたいに格好良くなりたい。茜ちゃんみたいに強くなりたい。この想いだけは、譲るつもりはありません……ッ!」
本心をぶつけた日葵に対して、渚も心の底からの叫びを返した。
しかし、それだけで日葵が納得などするはずない。
「それがなんだっていうんですか! 何も出来ないなら引っ込んでいてください!」
「強くなるって決めたんです! 茜ちゃんに頼るだけの日々から卒業するんです!」
「だったら私が藤沢先輩を支えてみせます! あなたがどうするかなんて関係ない!」
「茜ちゃんは私のために頑張ってくれたんです! 私が逃げちゃいけないんです!」
「藤沢先輩もあなたも『藤沢渚』なんだったら、逃げるなんて関係ないじゃないですか!」
「関係あります! 私がやることに意味があるんです!」
「意味がわかりません!」
「あなたに分かってもらうつもりなんてありませんッ!」
日葵も渚も、どちらも譲る気はないようだ。
控えめにも会話のキャッチボールとは言えない強烈な戦い。普段出さないような声を出したからか、二人とも肩で息をしていた。
張りつめた空気は変わらないまま、誰も口を開かない時間が流れる。
傍観者である奏汰には、何かを言い出すことは出来なかった。おそらく奏汰が何かを言ったところで、日葵の心には雀の涙ほども届かないだろう。
湿気の高い風が、日葵のくせ毛をふわりと揺らした。
「理解は、できません。認めるつもりも、ありません」
これ以上の言い争いは無意味だと思ったのだろう。強張っていた体の力を抜いて、日葵は踵を返した。渚の言葉で考えが変わったわけではないだろうが、今回はもう敵意を向けるつもりはないようだ。
屋上の扉のドアノブを掴んだ日葵は、振り返ることはせずに言う。
「藤沢先輩みたいになりたいなら、決して手を抜かないでください。私、負けませんから」
「……はい。頑張ります」
渚の返事を聞いた日葵は、扉を開くと気の抜けた声で、
「早く戻らないと、次の授業に遅れますよ」
それだけ言い残して日葵が屋上から出ていった瞬間、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
しかし、渚は授業に急ぐような仕草はしなかった。やはりショックが大きいのだろう。渚はその場から動かずに、じっと遠くを見つめていた。
奏汰は改めて渚の心を見る。海のような青い心は、嵐のように荒れていた。
そこにあるのは悲しみだけではない。怒りもあった。でもそれは日葵に対する怒りではない。弱い自分に対する怒りだ。
「大丈夫だ、渚」
奏汰は渚の肩に優しく手を置いて、
「ゆっくりでいい。少しずつ、前に進めばいいから」
「……はい」
渚がどれだけ頑張っているかをこの半月ずっと見てきた。
奏汰の共感覚は、その人の感情を嘘偽りなく見ることができる。だからこそ、渚がどれだけ真剣に向き合ってきたかも、奏汰はよく分かっている。
渚の成長も実感している。こうして、日葵から逃げなかっただけでも大きな成長なのだ。
奏汰は屋上の隅に視線を移した。初めて渚と会ったときに一目散に逃げられたことを思い出した。
本当に、あの頃に比べたらずっとずっと強くなっている。
「強くなってるよ、渚は」
「…………」
わずかな沈黙を挟んでから、渚は言う。
「どうして、奏汰さんはずっと私の味方をしてくれるんですか?」
「どうしてって?」
「初めて会ったときから今の今まで、私みたいな人間を助けてくれて。今もこうして励ましてくれて。どうして、奏汰さんはこんなにも私に優しくしてくれるんですか……?」
実際、渚とともに過ごすことが奏汰にとって得であるわけではない。生徒会の仕事は大変だし、下手に遅刻も出来なくなったし、たまに作る渚の手料理で死にかけることだってある。
それなのになぜ、奏汰は痺れも切らさずに渚とともにいるのか。
どうしてここまで、渚を支えてあげたいと思うのか。そんなこと、考えたこともなかった。
きっかけは、失ったはずの共感覚が藤沢渚の心の色を感じ取ったからだ。だが、それ以上の関わりに名前をつけるとするのなら、それは。
そんなとき、奏汰はふと茜の言葉を思い出した。
「…………渚のことが、好きだから」
「えっ」
「え!?」
奏汰は自分で言った言葉を意味を送れて理解した。無意識に声が出てしまったことの後悔と焦りで、奏汰は不気味な挙動をしながら、
「やっ、ち、違くてだな。これは前に茜に言われたことを思い出してつい声に出ちゃったというか……」
言い訳を並べるほど逆効果に感じてくる。だが、どうにか取り繕わなければならない。
奏汰が目をぐるぐると回しながら次の言葉を探していると、渚は可笑しそうに吹き出した。
「ふふっ。変な奏汰さんですね」
「へ、変……?」
鏡を見たらさぞ馬鹿面をしているのだろう。渚は腹を抱えて笑っていた。
「なんだか、辛くて悲しい気持ちがどこかに行っちゃいました」
「そ、そうか」
かなり自分へのダメージが大きいが、どうやら励ますことには成功したようだ。
ほっとした奏汰が脱力すると、渚は楽しそうに笑ったまま、
「私も好きですよ、奏汰さんのこと」
「え!?」
「もちろん、お友達として、ですけど」
小悪魔のような笑みに、奏汰の心拍数が一気に上がる。ほんの少し渚の顔が赤くなっているのは、本人も少し恥ずかしいのだろうか。
しかし、注目するべきはそこではない。見るべきは、渚の心の色だ。思春期の男子高校生としては、この言葉の真偽はどうしても知っておきたい。
だが、渚は踊るようにくるりと回って、
「ダメです。見せません」
奏汰の視界に映るのは渚の背中と、ふわりと舞うスカートだけ。
奏汰が相手の心の色を見るためには、最低でもその人の横顔以上の表情が必要になる。それを分かっているのか、渚は奏汰が心の色を見ることのできないギリギリの角度でこちらを見ていた。
わずかに体を動かして顔を覗き込もうとする奏汰へ、渚は甘い声で囁く。
「奏汰さんのえっち」
「な……っ!」
「女の子の心は、気軽に覗いちゃダメなんですよ」
そんなことを言いながら、渚は軽やかな足取りで屋上の扉を開けた。
「早く行きましょう、奏汰さん。遅刻ですから」
「あ、ああ。そうだったな」
言われるまま、奏汰は屋上を後にする。教室へと続く道でも、渚は奏汰の前を歩き続けていた。
廊下で渚と別れて、腹が痛くてトイレに行ってました、なんて古典的な言い訳をして席に着く。
自分の席に着く直前、ニヤニヤと笑う田代が脇腹を肘で突いてきた。
「何やってたんだよ。なんか面白いことか?」
「まあ、いろいろ」
それから受けた授業の内容は、なぜだかまったく頭に入ってこなかった。
週末。文化祭は七月第三週の週末なので、開催までちょうど二週間となった。
準備は上々。このままなら無事に文化祭は成功するだろう。渚に関して危惧があるとするならば、文化祭ではなく日葵についてだった。
屋上で渚と言い争いをして以降、日葵は渚とはほとんど話していない。生徒会の仕事としての事務的な会話を最小限するだけで、『藤沢渚に憧れている日葵』は一度も見なかった。
ただ、こちらの事情もわかってくれてはいるのだろう。渚の二重人格については、誰にも言わずにいてくれている。
しかし、このままでは渚にとっても日葵にとっても良くないし、生徒会の会長と副会長との仲が悪いというのも問題だろう。
そこで奏汰は、あることを考えたのだった。